今から約800年前の西暦1200年(鎌倉時代)、日本曹洞宗の開祖者となる道元禅師が誕生した。
父は、内大臣の久我通親。母は藤原基房の娘・伊子(いし)といわれている。要するに貴族の生まれである道元は、小さいころからズバ抜けて聡明な子だったようで、四歳で中国の詩を読みはじめたという伝説まで残っている。
だが、気の毒なことに幼少期にその両親ともを亡くしてしまう。
普通のマインドならば、幼少期に両親を亡くすと人格形成上において好ましくない影響が出かねない。だが、道元は違った。むしろ彼は逆にこんなことを語っている。
「それ(両親の死)は絶好の機会だった。私の気をそらせてしまったかもしれない人たち・・・・彼らは私を愛し、私は彼らを愛した。それこそが危険だったのだ。二人ともちょうど良いときに死んだ。二人は私を破壊することなく・・・」
13歳で正式に出家した道元。
だが、当時の比叡山を始めとする多くの修業先でも彼は満たされない。自分が探し求めている仏門ではないのだ。
道元自身、このころには随分と動揺や迷いがあったようで、「正師にもあわず、善友もなかったので、迷って邪念をおこした。けれども、それは昔の仏者が憎み嫌った心だと気づき、日本の出家者たちでなく中国やインドの先達・高僧を思うべきだ、とこれまでの考え方を改めてしまった」(『正法眼蔵随聞記』)と、自ら告白している。
やがて中国の天童山で如浄という名の卓越した禅師と出逢う。さっそく如浄に対して長年の疑問を問う道元だったが、答えを聞いてカウンターパンチを喰らう。
「いかなる修行も必要ない。ただ在るがいい。沈黙し、静かになればその実在でお前はブッダなのだ。お前は、自己の内側以外のところをさがしているから逃がしているのだ。師から師へと変えることでは決して仏性は見つからない。内側へ入るがいい」
そこには坐禅を中心とした本物の修行があった。
道元は語る。
「私は昼も夜も坐禅をした。酷暑極寒のおりには病気になってしまう、と多くの僧が坐禅をやめた。しかし私は “病気でもないのに修行をしなかったら中国まできた意味がない。病気で死んでも本望だ” と坐りつづけた」(『正法眼蔵随聞記』)というほど、坐禅に打ち込んだ。やがて、大悟する。
多くの留学僧が山のような仏典をみやげに帰国するのに対し、道元禅師は何ひとつ持たず、「只管打坐(しかんたざ)」、只ひたすら座るというの教えだけを身につけて日本に戻ったのだ。
帰国後の1243年、禅師は支援者・波多野義重の招きによって京都をはなれ、越前(福井県)の山中に居を移す。
「深山幽谷に住んで、仏祖の教えを守れ」という如浄禅師のことばにしたがって都から身を遠ざけたと言われている。
その翌年、波田野義重の寄進によって修行道場が完成した。はじめは大仏寺と名づけられ、のちに永平寺と改称される。
これが今日の大本山・永平寺だ。
今日は紙面が尽きたようだ。明日は広島・少林窟道場での坐禅体験を書いてみたい。