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ちょい不良と日々好日

酒席にて、隣に座られた社長に「理想とする経営者像」をたずねたところ、「ちょい不良(わる)オヤジです」という答えが返ってきた。

「エッ、何ですかそれ?」と聞き返す私に向かって、もう一度彼は、
「ちょい不良オヤジって知りませんか?例えば、タレントのジローラモとか中尾彬なんかがその例だと思うのですが、不良中年という感じで格好良いですよね」
「・・・」
「彼らのような中年男になりたい」

結局、30才位の彼が語ってくれた理想の社長像というのは、外見の話ばかりだった。「ちょい不良オヤジが理想」では、いかにも淋しい話ではないか。
そこでちょっと意地悪な質問をしてみた。
「じゃあ、”ちょい不良オヤジ”と”不良オヤジ”や”好色オヤジ”との違いは何ですか?」とたずねると、彼は口ごもった。

彼の言うように、そこそこ不良でそこそこ良い人、というのは中途半端だと私は思う。思いっきり不良だが、根は思いっきり良い人という両面が同じ人に同居していてほしいものだ。

同じような例として、「日々是好日」とか「晴耕雨読」などを将来の理想像として掲げる人もあるが、それらの言葉の意味にも誤解があるようだ。

「日々是好日(ひびこれこうじつ)」とは、毎日毎日が良き日でありますように、という願望を表した生やさしい言葉なのではない。
本来は、厳しく激しい決意表明の言葉なのだ。

日々是好日の本来の意味は、「私は毎日毎日を良き日にしてみせます。そのためには、今この瞬間瞬間に全身全霊を傾けて命を完全燃焼します」という覚悟と決意を表したものなのだ。

同じく、晴耕雨読だってそうだ。
なまけ者がこの言葉を使うときは、「晴れたら田んぼでも耕し、雨が降ればのんびり本を読む。そんな自然まかせの悠々自適な生き方も悪くない」となる。

だが、賢者がこの言葉を使うときはこうなる。
「晴れたら野良仕事に精をだし、雨が降れば読書を全力でやる。いつだってどこだって私は全力で今を生きる」となる。

「ちょい不良オヤジ」「日々是好日」「晴耕雨読」に限らず言葉には表面的な意味と真意との二つがある。人と会話するときには、言葉の意味を理解しながら会話したいものだ。