BRICS(ブリックス)つまり、ブラジル、ロシア、インド、中国の四ヵ国は、これからの世界の政治経済に大きな影響を及ぼす国として注目されている。
「がんばれ社長!」作者として私も早い段階でこの四ヵ国を回っておきたいと思っているが、今回は縁あってブッダの足跡を回る旅に参加するため、インドを訪れた。
今日は、先週からお届けしてきたインドレポートの最終回だ。
移動のバスや列車でインドをながめながら感じたことは、「インドはインドだ、他のどこにも似ていない」ということである。
例えば、終戦直後の日本に似ているとか、中国の西部地区に似ているなどの比喩を使うことができれば楽なのだが、私の記憶をどれだけ呼び覚ましたところで、そうした例えは思いつかないのがインドなのだ。
ヒンドゥー教について
ヒンドゥーとはペルシャ語でインド人を意味する。ヒンドゥーはインドの語源でもあり、ヒンドゥー教はインド教と同じ意味だ。
約11億人のインド国民の80%強がヒンドゥー教徒である。特定の開祖や教典を持たず、教団としても組織化されていない。しかし、カースト制度を守り、いくつかの特有の儀礼や風習を守り続けている。
苦行やヨーガなどによって輪廻から解脱しようと追求しているアグレッシブな信者も少なくないのだ。
ヒンドゥーに次いで二番目に多い宗教がイスラム教、ついでキリスト教、スィク教、ジャイナ教、仏教などと続く。
ご当地でありながらも仏教は、ヒンドゥーに飲み込まれた格好。
ブッダは、ヒンドゥーの第9番目の神という地位に甘んじているのだ。
カースト制度と就職、結婚について
インドでは第三者に自分を知ってもらう場合、今でもカースト制度での身分を名乗ることが多い。
カースト制度はもともと、紀元前1500年頃に北インドに侵入してきた白人系人種アーリア人が肌の色で作り上げた身分制度。
それが後に変形し、アーリア人のなかにも能力に応じて四つの階級を作るようになった。
優秀な人たちは、バラモン(祭司)、つまり聖職者についた。
強い人たちは、軍事・政治についた。頭が良い人たちは商工業活動についた。残った人たちがその下(被支配階級、奴隷、誰もやりたがらない仕事に就く人々)となった。
今では更に細かく職業分類されているカースト制度も、最初は、どの身分階級や職業につくかは、本人の能力によるものだった。だが、やがてカースト制度が強くなり、身分は世襲されるようになる。
バラモンの子はバラモン、奴隷の子は奴隷なのだ。建て前では憲法で禁止されているカースト制度ながら、現実はインド社会に厳然と存在する。
もちろん、カースト制度の身分が同じでなければ結婚も難しい。いや、同じでなければ、事実上結婚できない。
最近、差別に苦しむ人々の解放運動も激しさを増し、身分制度を緩やかにしようとする動きもあるが、撤廃に向けての具体的動きはまだない。当面、なくなることはないであろう。
教育と生活レベル
私が訪れたブッダ由来の町々は、インドの北東部にあたる大平原だ。
乾期でも緑豊かな所だ。農産物が豊かで、人々の暮らしぶりは2500年前のブッダの頃と大して変わっていない。変わる必要がないというべきか。そしてこれからの2500年も大して変わらないだろう。
インド国内には一日の生活費が1ドル以下という人々が3億人いる。
その一方で、高額所得者・高額消費者と呼ばれる人々の人口はすでに日本より多い。貧富の格差が著しいのだ。
国民間の情報格差がなくなった今、インドに限らずBRICS(ブリックス)諸国では貧富格差問題にどう取り組むかが重要な政治課題となるだろう。
カーシーとガンガー
カーシー(ベナレスの古名)に行ってガンガー(ガンジス河)で沐浴することは、江戸時代の人々がお伊勢さんを詣でる以上に宗教的に強い意味がある。
ベナレスはヒンドゥーの最も聖なる街なのだ。
生きたい人も、死にたい人も。死んだ人もここに集まる。お金がなくてもあらゆる労を惜しまず、みんなここにやってくる。
生きる力を求めて太陽に向かってガンガーで沐浴・礼拝する人々。その横では、次々に運び込まれる死体が荼毘に付されるための煙が有史以来途絶えたことがない。生と死を同時に味わえる場所、ひとつの命のはかなさと尊さが同時に感じられる荘厳な場所なのだ。
冷たい、気持ち悪い、という思いを断ち切って私もガンガーに飛び込んでみた。
私はヒンドゥー教徒ではないが、悟りや真理をもとめたいという気持ちでは彼らに負けてはいないつもりだ。
これにてインドレポート、ひとまず終了。