★テーマ別★

資本主義の精神 その2

Rewrite:2014年3月28日(金)

前号のつづき>

富をむさぼり、欲望や快楽や怠惰に流れることと、資本主義とは本来相容れないはずのものだ。禁欲的に日常の生活をすみずみまでコントロールしなければならない。そのように、かつてはカトリックの修道院のなかでのみなされていた禁欲的生活が、修道院を飛び出て、今度は世俗内でおこなわれるようになった。来世を目指しつつ、世俗で営まれる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出した近代資本主義のルーツと呼べるものである。

つまり、ビジネスで成功し富を得ることは、神から許された行為なのではなく、現世における自分の義務だと信じたのである。この近代資本主義の精神も17世紀には変質し始めることになる。

その前に「禁欲」という言葉について補足が必要だろう。ここでいう禁欲とは修行僧のそれのように人間のもつ煩悩を断ち切るような「非行動的禁欲」ではなく、あくまで「行動的禁欲」なのだ。
他のあらゆることを忘れ、褒美を得んものとただゴールを目がけてひたすら走りに走るという類の禁欲だ。エネルギーのすべてを目標達成のために注ぎ込む行動様式と言ってよい。

小室直樹著『資本主義のための革新』(日経BP社)によれば、日本では幕末の志士がまさしく「行動的禁欲」の見本であると説く。また、マックスウェーバーの言葉を借りれば「空前絶後とでもいうべき英雄的行動」をもたらすものが「行動的禁欲」なのだ。

プロテスタントたちにとっては、自分は神から選ばれた民であることを現世で証明する唯一の手段が職業労働であり、「天職」だった。これが私の天職です、というあの「天職」は、信仰的エネルギーから来ているのだ。
利益も利子も神から許された。「禁欲」と「天職」でただひたすら金を儲け、自分の私利私欲のためには消費せず、隣人愛にかなうことのために使おうとした。

結果として彼らは富を蓄積してゆくことになる。こうした彼らの行動はやがて信仰とはかけはなれ、社会の機構として資本主義を独自の歩みとして発展させることになる。
信仰的エネルギーで作り上げた経済のシステムが、社会全体におおきく覆い被さるようになってくるのだ。
当然、競争相手たちも「禁欲」と「天職」で立ち向かってくるようになったのだ。「結果として儲かっていた」ものが1世紀もすると「儲けないと経営が続かなくなる」状態になった。ついには信仰的核心は失われ、金儲けの合理的システムとして独自の歩みを始めてゆくことになる。これが近代資本主義の誕生と、その精神だ。

現代社会における資本主義の精神とは、信仰からはかけ離れたものになった。しかし、「行動的禁欲」と「天職」という考え方を持ち続ける限り、空前絶後の英雄的行動も可能となる。それこそが今も通用する本物の企業家精神ではないだろうか。