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資本主義の精神 その1

Rewrite:2014年3月28日(金)

利益は企業存続の「必要経費」として欠くべからざるものである。にもかかわらず、ある経営者に面と向かってこう言われたことがある。

「私は学生の頃から資本主義というものに抵抗がある。金で人間が高慢にもなれば下品にもなるからだ。利益や富よりも大切なものがあるはずなのに、それに正面から向き合うことなく金銭だけを追いかけるビジネス世界は性に合わない。そこで芸術の道を歩もうとしたことがあるが、そこでも根本は同じだった。結局いまは家業のバイク店を継いでいるが、そんな人間が社長をやっているのだから儲かるはずがない」と。

資本主義の権化ともいうべき株式会社を経営していながら資本主義に抵抗があるという気持ちは分からぬでもない。そんな方には、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)を読んでみてはいかがだろう。少々難解な本ではあるが、拾い読みするだけでもヒントが見つかるはずだ。以下は私なりの解釈ながら同著のエキスを整理してみた。

近代資本主義の歴史は500年にも満たない短いものだが、商人の存在は太古にさかのぼることができる。聖書にも登場する高利貸しや徴税代行人、日本でも奈良平安朝時代(あるいはそれ以前)から商人は存在した。これらも広い意味では「資本主義」と呼べるが、狭い意味での資本主義、つまり「近代資本主義」は16世紀を起源とする。正確には「近代の合理的経営的資本主義」とよぶもので、簿記を土台として営まれる合理的な産業経営の上になりたつ利潤追求の営みをいう。従って簿記と計数を土台としない経営は、「近代資本主義」以前のころの経営スタイルと呼ぶしかない。

この「近代資本主義」は、おもしろいことに西ヨーロッパ諸国にのみ発生したものだった。広い意味での資本主義が発達していた中国やインド、イスラムなどの文明圏では近代資本主義が興っていない。その理由は、宗教問題と考えられる。

16世紀においてルターの宗教改革の影響で誕生したプロテスタント(英語圏ではピューリタン)は、禁欲志向が強い。肉欲・金銭欲を最も忌み嫌う彼らが、近代資本主義の立て役者となった点がおどろきだが、その理由はこうだ。

1.カルヴァンを筆頭とする「恩恵による選びの教説」つまり予定説が西ヨーロッパに普及した。
2.このきわめて過激な思想によれば、神は永遠の生命をあたえた人間をすでに選び、他の人間は永遠の死滅を予定したという。
3.だれが永遠の生命に予定されているかは神のみぞ知る。しかも人間がそれを変えることは絶対不可能だ。
4.これによって人びとは救済の道をいっさい絶たれることになる。聖書も教会も助けてくれない。神さえも助けえない。「人間のために神があるのではなく、神のために人間が存在する」と考えるこの悲壮な教説は、人びとを絶対的な孤独と不安へ陥らせた。
5.こうしてプロテスタントにとって自分が神から選ばれているか否かが最大の問題となったとき、かれらに残された道は一つしかなかった。
6.まず誰もが、「自分は選ばれているのだ」とあくまでも考えて、すべての疑惑を悪魔の誘惑として斥ける、つまり自己確信をもつこと。そして自己確信を獲得するために「絶え間ない職業労働」にいそしむことである。
7.なぜ職業労働なのか・・・ルターが聖書翻訳のさい「天職」概念を導入して以来、プロテスタントにとって世俗の職業は、神が各人に与えた使命であり、職業労働につとめることが「神の栄光をます」こととされていたからだ。
8.こうして切実な宗教的不安を解消しようとする強烈なエネルギーが職業労働に向けられることになった。

こうしてみると、資本主義の原形はいまとは随分ちがう「禁欲」と「天職」という概念が根本にあることが分かる。儲けることが目的ではなく、ただひたすら神の意志に合わせて、みずからを職業人=天職人として自己形成する必要があった。表現を変えれば、職業労働を中心とした生活に救いを求めたと言ってよい。

<明日につづく>