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母の手紙

今から百年ほど前の明治45年、ある母親がアメリカにいる我が息子に宛てた手紙をご紹介しよう。
この母親は幼いうちに両親と別れ、子供のころから働きに出たため、学校も満足に出ていなかった。手紙には誤字も多いし句読点のうち方もヒドイ。でも息子の心をとらえてはなさなかったのだ。

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おまイのしせ(出世)にわ、みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまによこもり(夜篭り)をいたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)きりかない。(きりがない)いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には借金を返すようにいわれて)こまりおりますか。(困っています)おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。
しております。きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわ しおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。
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ちなみに今もこの手紙の実物が、後に出世した息子の記念館に保存されている。

「1日も早く帰ってきてほしい、私は心細い」と息子に訴える母。
この手紙の差出人は、野口シカ。受取人は野口英世である。

極貧の農家に生まれた野口清作(のち英世と改名)は、困窮のあまり没落しかけていたシカにとっての再興をかけた希望の星だったのだ。
ところが一歳半のころ起こったあの有名な悲劇。

我が子のすさまじい鳴き声に驚いて駆けつけてみると、清作がいろりの火の中に体ごとうつぶせに倒れこんでいたのである。あわてて抱き上げるシカ。だが清作の左手が無残に焼けただれ、苦痛と恐怖でぶるぶると震えていたという。猪苗湖畔の寒村だ。近くに医者はいない。
もしいても、払えるお金が無かった。
シカは一心不乱にお経を唱え、21日間にわたって観音様に願をかけながら寝ずの看病を続ける。

幸い命は助かったものの、清作の左手は、親指が手首のところにねばりつき、中指は手のひらにねばりついて離れない。松の木のこぶのような醜い姿となってしまった。
このとき、シカは清作の将来について悲観せざるを得なかった。

「こんな手では百姓はできない。この子を一生養ってゆかねば」

シカは我が不注意を深く悔いた。そして息子を養っていく覚悟を固める。
だが予想外なことに、清作はヤワな男ではなかった。努力家の秀才だったのだ。死に物狂いで学問に打ち込んだ。睡眠時間は極端に短く、風呂焚きなどの仕事をしながらも読書し続けた。
そんな清作にやがて支援者があらわれた。
清作は、上京して医者を本格的に目指すことを決意する。この時に、清作が家の茶の間の柱に小刀で彫った言葉が今でも残されている。

 -志を得ざれば再び此地を踏まず-

私は野口英世記念館でこの彫り物をみた。

学問が認められ、米国の研究所で助手を務めるなどをしながら栄達してゆく英世とは裏腹に、この頃のシカがもっとも苦しかった。一家離散寸前だったのだ。
そのとき、慣れぬ筆を取り上げた書いた手紙が冒頭のものだ。

人の人生はあまりに重く短いが、だからこそ後世の私たちがそれを知ったとき、心に迫るのだろう。