「人の第一の目的とすべきは生活を正すことである」という言葉に接した11才の中江藤樹(なかえとうじゅ)少年。思わずこう叫んだ。
「このような本があるとは。天に感謝する。聖人たらんとして成りえないことがあろうか!」
感極まって泣いた藤樹少年。それだけでなく、この日の感動を終生忘れることなく、「聖人たらん」という大志を抱き続けたというから、何たる人物だろう。
1608年生まれ、江戸時代が始まって5年後の生まれで、侍は武芸に励むのが常識とされた時代にあって、学者・教育者の道を歩む。
のちに「日本の陽明学の祖」、「近江聖人」と言われるにいたるきっかけは幼少時の読書だった。
そして藤樹少年は単なる早熟ではなかった。その後の成長ぶりがまたすさまじい。
そのあたりを物語る逸話として、内村鑑三著『代表的日本人』にあるエピソードからご紹介したい。
脱藩して親孝行した藤樹
27才のとき、生家の母への孝養を名目に帰国を願い出るが許されず脱藩。藩主よりも母に尽くす道を選ぶにあたっては、相当悩んだようで家老に次のような手紙を書いている。
「二つの道のいずれをとるべきか、心の中で慎重にはかりました。主君は、私のような家来なら手当てを出すことでだれでも召し抱えることができます。しかし、私の老母は、こんな私以外にはだれも頼る者がいないのでございます。」
母のもとにあって藤樹は心安らかではあったが、母を慰めるものはなにもなかったという。家に帰り着いたとき藤樹がもっていたお金は百文だった。
(武沢註:4,000文が一両、一両が8万円とすると、藤樹が持っていた百文とは今の価値でわずか2,000円となる)
その金で少しの酒を仕入れ、みずから行商人となってそれを売り歩いてわずかな日銭を手にしたという。また、「武士の魂」といわれた刀まで売って銀10枚を手にし、その金を村人に貸してわずかな利子でつつましく生計を維持したというからすごい。
高利貸しではなく、人助けの低利貸しだったのだ。「聖人たらん」という志の実践者といえよう。
翌年28才になって江戸時代の最初の私塾と思われる学校を開設している。真の学者とはどういう人かと聞かれて藤樹はこう答えている。
「学者とは徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。学識は学才であって、生まれつきその才能をもつ人が学者になることは困難ではない。しかし、いかに学識に秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である。無学の人でも徳を具えた人は、ただの人ではない。学識はないが学者である」
学者とは学識がある人ではなく徳がある人のことである、とは、まさしく卓見。
学識経験者や学校エリートが国や行政を動かしていてはうまくいかない。藤樹が言う”学者”が政治や経済のリーダーになる世の中を作りたいものだ。