自分のイスがいつも誰かに脅かされているような社長は幸せだ。何があっても社長の座は安泰という会社は不幸せだ、というお話しをしたい。
同族企業のA専務との会話。
A:「武沢さん、ちょっと聞いて下さいよ。うちの親父がまだ私に社長の座を渡そうとしないんですよ。私が専務になって今年で20年目だ」
武沢:「なんと。専務歴20年とはすごいですね。とろろで今年で何才になられるのですか?」
A:「父が85才で、私が59才になる。来年になれば私も赤いチャンチャンコですよ。さすがにこの年まで来ると、もう開き直ってきて、親孝行になるのなら、ずっと社長は社長のまま一生を全うしてもらいたいと思っているのです。何なら私が社長にならなくても、一気に私を飛び越して息子に社長をやらせても良いと思っている」
達観した専務だが、リーダーとしてもの足りなさを感じた。
儒教的な教えでの親孝行とは、親よりも長生きをすることであるとか、親が喜ぶことをする、悲しむことをしない、と教えられるだろう。
だが、親が喜ぶとか、悲しむということをどのように理解するかがポイントなのだ。
「親が喜ぶのなら、ずっと親父に社長をやらせておいて」というA専務は本当に親孝行なのだろうか?
私は否だと思う。
「よいか、よ~く聞け。父上を討つ」と腹心の部下に宣言し、自らの父・信虎を追いやって当主の座についた若き武田信玄。
そうしたリーダーの存在こそお家の宝ではないか。
敬意を表しながらも先代を陳腐化させることが親孝行なのだ。
武田信玄のクーデターは、下克上の戦国時代ゆえ許された面もあるが、資本主義経済、自由主義経済というのは法のもとでの下克上戦国時代といえよう。
そのような意味で、社長の座を虎視眈々と狙う副社長や専務のいる会社は幸せだ。
孟子は、親不孝の定義として次の五つをあげている。
1.立派な手足と体があるのに怠けて父母への孝養をかえりみない者
2.博打をうち、酒ばかり飲んで父母への孝養をかえりみない者
3.欲が深くて自分と妻子にのみ金を使い、父母への孝養をかえりみない者
4.聞きたい見たいとレジャーばかりにうつつをぬかして、父母を辱める者
5.いきがって喧嘩ばかりして、父母に心配ばかりかけている者
さらに孟子は、父と子が正しいことを求めて議論し、その結果恩愛を失って子が勘当され、親孝行ができなくなっても、それは親不孝に当たらないという。
(『孟子』離婁章句 下三十一より)
親に勘当されても親不孝にならない事がある、とはすごい定義ではないか。お客や社員を守り育て、会社を発展させていくためには、人的な新陳代謝をうながす必要がある。子が親を乗りこえねばならないのだ。