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賽を投げる

「これ、良くなくない?」(語尾を上げる)
「ううん、良くなくなくない」(語尾を下げる)
「え~、そうぉ?」

今朝、テレビで紹介されていた流行語だ。

流行語が日本語を乱すと文句をつけたいのではない。流行語は昔からある。ガチョーンもビローンもシェーも私の世代では大いにつかったものだが、それによって日本語が乱れたとは思っていない。

だが、流行語や新しくできた造語などが、人の生き方に影響を与えることはあると思う。最近ではフリーターに近い言葉として「ニート(NEET)」というものが出てきた。
ニートとは、Not in Employment, Education or Trainingの頭文字で本人に就職意欲がなく、親に依存するなどして働かない若者たちを総称していう。平成15年で63万人もいるという。

もともと、本業を持とうとしないフリーターという生き方にも疑問を感じていた私だが、それでもまだ勤労意欲があるからましだ。
ところがニートとなると働きも学習もしない。勤労・納税・教育という国民の三大義務をまっとうできない若者たちを「ニート」などというしゃれた名称でポジションを与えてはならないと思う。それでは、存在を認めることを意味してしまうのだ。

さらには、昨年ころからプチ○○○とか、週末△△△などという言葉をよく耳にするようになった。これも流行語の一種か。
プチ旅行、プチ整形とか、週末断食、週末湯治など、趣味的・個人的なことなら構わないが、プチ起業、週末起業、プチ社長、週末社長となると許せない気分になる。
少なくとも私は、「プチ」や「週末」の人から物を買おう・サービスを受けようという気分にはならないし、友人からプチと週末の相談を受けたら「やめろ」と言うだろう。

そう思うのはなぜか?
プチや週末ではしょせんそれまでだからだ。「成長するものだけが生き残る」と言われるビジネス界にあって、プチと週末というスタンスでは趣味の延長を脱しきれず成功するとは思えない。やるなら思い切ってやらねばならない。

ルビコン川を渡るとき、カエサルは言った。「賽は投げられた」と。
紀元前49年のこと、カエサル(カエサルはラテン語、英語読みではシーザー)はローマを支配していたポンペイウスに宣戦布告した。
ルビコン川を渡り、ローマの中心部に入るときに言ったことばだ。
つまり、もう後戻りできない。どうやって勝つかだけを考え始めた瞬間だ。

賽を投げる前であれば、カエサルにはいろいろな選択肢があった。
だが賽を投げたあとの選択肢はひとつしかない。勝ち方を考えるだけなのだ。そこに大きな違いがある。人間が成長するのは賽を投げた後だ。調査研究・リサーチ・学習・準備とトレーニングの段階ではたいした成長をしない。

私は賽を投げた人から物を買い、サービスを受けたいと思う。