★テーマ別★

続続・空海、遣唐使、密教

キリスト教では絶対なる神を信じ、神の子イエス・キリストを信じることで永遠の命があたえられると説いている。この世で命が果てたとしても、天国で豊かに暮らすことができる。信者は現世利益だけでなく、来世も保証されたわけだ。

仏教が説いていることは、解脱である。私たちは煩悩にとらわれて生きるから苦しみが絶えないので、悟りを得えて解脱(げだつ)することをめざそうと説いた。自分以外の誰か(何か)を信じろと説いてはいないわけで、その点で仏教は、宗教というより思想や哲学に近いといわれる。

解脱とはなにか。狭い意味では、荷物をすべて解き放った状態をいう。煩悩をなくし、分別をも超越して、ただありのままになって周囲に悟らされていきることをいう。大悟(だいご)ともいうが、悟った瞬間はとにかく愉快で大笑いしたくなるという。

広い意味での解脱とは、もう二度と人間に生まれてくる必要がないという意味である。そもそも人間でいるということ自体が苦しみを生きることを余儀なくされていると考える仏教。それは「欲界・色界・無色界」という三つの考え方で区分けされているのだ。

まず最初の「欲界」には、六趣(ろくしゅ、六道ともいう)があり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天(天上界ともいう)のことをいう。

「天」はさらに六つのランクに分かれているのだがここでは割愛。「天」は人間界よりはるかに清浄で極楽浄土かと思いきや、「欲界」であることにかわりはない。したがって、淫(いん)と貪(とん)に支配されている点では人間と一緒なのである。ちなみに宗教というものがあるのは人間界だけで、「天」にはない。「天」を支配しているのは帝釈天や弥勒菩薩などの仏であり、そこには解脱という概念はないらしい。

「欲界」の上にある「色界」(しきかい)には、四つのランクがある。いずれも、欲を完全に離れた禅定の世界で、そこには愉悦しかない。ここまでくると、一般的な人間ではないので男女の区分けもない。食欲と淫欲がなく、光明を食とするが、情欲と色欲はあるそうだ。

最高の「無色界」(むしきかい)も四つに分かれている。欲望も物質的条件もすべて超越し、ただ精神作用のみの禅定の世界だという。「そんな世界のいったい何が楽しいの?」と思われるかもしれないが、それは人間界にいる人が感じる疑問であって、精神世界の豊かさや喜びは私たちの想像をはるかに超えたものと考えられる。

「欲界」「色界」「無色界」については様々なお経や宗教画などでこと細かに解説されており、苦しみから逃れたい、抜け出したいと思うひとにとって希望のシンボルといえる。

ところが、厳しい修行によってはじめて煩悩を断ちきり、解脱(げだつ)できると説く初期の仏教では、かぎられた人しか悟りをひらくことができない。そんな狭い教えでは人々を救済できない。人間に備わっている煩悩や欲望というものをみとめつつ、大日如来を中心とした体系的な曼荼羅の世界を仰ぎ見、真言(宇宙の言葉)をとなえ、大日如来の智慧と慈悲をあまねく自分に取り込んで、即身成仏(そくしんじょうぶつ。あの世にいかず、出家もせずに仏になれる)を目ざそう、と説いたのが「密教」である。

空海はその全体系を日本に持ち帰りたいと願った。そもそも密教の断片的なものは奈良時代のころから呪文をとなえる呪術師(じゅじゅつ)や陀羅尼(だらに)などによって日本に伝来していた。山林修行する修験者や山伏に雨乞いしたり、病気回復を祈願する。その効果をみて、お布施をしたり信者になるといった、現世利益による布教法は、奈良平安の時代において一般的なものといえた。のちに、空海も最澄もそうした安易なパフォーマンスを嫌がったが、天皇の頼みとあれば断るわけにもいかず、二人とも必要に応じてそれをした。今日まで伝わっている空海伝説の多くは、たぶんにそうした呪術的なパフォーマンスで周囲をおどろかせたときの記録であろう。

密教では「大日経」と「金剛教」が二大経典といわれる。いずれもインドがルーツで、やがて唐に渡って漢訳された点でも共通している。ところがそれを最初に説いた人や、唐に渡った時期、ルートなどはいずれも異なる。ところが、不思議なことに両方の経典が同時代に漢語に訳され、その両方(大日経と金剛経)の免許皆伝を受けた人物がいた。長安の青龍寺の住職、恵果(けいか)和尚である。密教史上で最初の、両経典の免許皆伝(密教では潅頂、かんじょう、という)を受けたという、すごい人なのだが、空海が長安に着いたとき、恵果和尚は空海がくるのを待っていた。

<明日につづく>