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空海、遣唐使、密教

空海が遣唐使船に乗り込んで唐の長安(今の西安)に渡り、密教をもちかえったことは知っていたが、その前後のできごとについて私は、断片的な知識しか持ちあわせていなかった。そもそも空海が命をかけて学び、教義の確立と布教につとめた密教とは何であり、その教えが現代の私たちにどう役立つものなのか、一切が不明といえた。

そこで、ずっと書棚に眠っていた『空海の風景』(上下巻、司馬遼太郎著)を引っぱりだして読んでみた。その次に、「理趣教」に興味がわいたので、その解説書も何冊か読み、密教曼荼羅(マンダラ)の見方を解説した本も読んだ。

知らぬは己ばかりなり、という言葉がある。以下、私が知り得たことを整理してみるが、その多くは、すでにメルマガ読者の大半の方がご存知である可能性がある。「なんだ武沢さん、そんなことを今ごろになって知ったの?」ということかもしれないが、そんな侮蔑を恐れていてはメルマガなど書けない。

「大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる」というが、大師とはもともと天皇が与える称号で、20人以上の人が与えられている。空海はそのなかのひとりである。

同様に「太閤」とは、摂政・関白を子弟に譲った者のことで平安時代からの呼称である。「太閤イコール豊臣秀吉」ではないのだが、あまりに有名なので「太閤」は秀吉の専売特許のようになった。

大師もそれに近い。「お大師さま」といえば伝教大師(最澄)や川崎大師ではなく、弘法大師(空海)をさすことが一般的なのである。

さて、空海は西暦 774年(奈良時代後半)に今の香川県善通寺市で生まれ、835年(平安時代)まで 62年の生涯をおくった。父は役人の家系で、母は学者の家系と、比較的恵まれていた。15歳のとき、母の兄にあたる阿刀大足(あとう おおたり)という人から家庭教師を受けはじめ、おもに儒教や文章を学んだ。大足は京都で皇太子の教育係を行っている大物でもあった。その後、空海は 18歳で京都の大学に入って儒教を学びはじめる。この当時の空海は、立派な役人になって活躍し、家名を高めることが自分に期待されていることだと自覚していたはずだ。

ところが一年で勝手に退学してしまった。大学の学問(おもに儒教)に飽き足らなくなったのだ。その後、ひとりで家を出て山林修行を始めた。そして徐々に仏教に傾倒していく。孔子を祖とする儒教は、人間社会の処世術を学ぶことができても自然界や大宇宙の法則を知りそれを己に活かす術(すべ)は学ぶことができない。儒教でないとしたら、果たして道教が良いのか、仏教が良いのか、それとも・・・と、生涯を賭けるに値するものを見つけることに躍起になった。

空海が 24歳のときに書いた『三教指帰』(さんごう しいき)は、日本で最初の比較思想論といわれている。その内容は、遊興にとりつかれて真理に目ざめることがない若者を儒教家、道教家、仏教家が訪ねていって誰が若者の人生を変えるかを競う三幕ものの芝居の脚本のような本である。

このときすでに仏教に進路を決めていた空海だが、当時の時代背景では、誰もが希望して僧侶になれるわけではなかった。僧侶は国家管理による定員制が敷かれていたのだ。やむなく、禁じられている私度僧(しどそう。自ら勝手に「僧」と名乗ること)になった空海は、乞食(こつじき)をしながら山林修行をかさねる。その行程が今のお遍路コースの原型になっているのだが、当時の空海は人生の進路がまったく読めず、大いに将来を不安視したに違いない。

★「三教指帰」に関する「がんばれ!社長」記事
http://www.e-comon.co.jp/magazine_show.php?magid=4390

余談だが、私度僧あがりで僧になり、大成した人は空海以外にも何人かいるが、天皇と直接交友関係を結ぶにいたるまで立身したのは空海ひとりと言えそうだ。

空海がそのころ気にしていたのは遣唐使の一行に関する情報だった。当時、唐では国家をあげて仏教経典の翻訳に取り組んでいた。天竺(インド)から渡来した膨大な仏教経典の数々をサンスクリット語から漢訳する。遣唐使の使節団の最大目的はその漢訳された仏教経典の収集である。次いで、正史や律令制度に関する書物、文化、芸術などももちかえっている。

遣唐使は 20回組織され、18回が実際に派遣され、2回が中止された。最後になった 20回目の遣唐使の大使には菅原道真(すがわらみちざね)が選ばれたが、彼は遣唐使中止に関する建議をだし、実際にも中止されている。

その理由として、
1.遣唐使船の多くが遭難するなどしており、国家有為の人材を失う可能性が高すぎること。
2.遣唐使は唐の優れた技術や文物を吸収することであったが、日本と唐の文化は同等であり、もはや学ぶべきものはな   い。
3.遣唐使とはもともと日中交流のために開始したのに、いつの間にか朝貢使のように扱われており、国辱である。
というものであった。

若き空海は、四国の山林を修験者のように歩きながら雑密(ぞうみつ、初期の密教。呪術などを専門にする)修行をしながら密教教典の存在を知る。「大日経」(だいにちきょう)の写経が日本に渡来しているのを知って小躍りする思いでそれを読んだ。しかし当時主流になっていたのは南都六宗(なんとろくしゅう、法相宗、倶舎宗、三論宗、成実宗、華厳宗、律宗のこと)であり、密教は朝廷からも世間からもまったくかえりみられていなかった。

密教の全体系が唐にあると知った空海は、遣唐使の一員になりたいと思った。ただ、その前に横たわる大きな障害があった。私度僧のままでは、遣唐使の船に乗ることができない。得度し、公式な僧になる必要がある。さらに、二年~数十年に一度派遣される遣唐使の船がつい最近、出発したばかりであるという。さらには、その船に、最澄という天皇とも親しい高僧が乗っているから、その人に用事を頼んだらどうだ、と周囲にいわれたことだった。

あとになってわかることだが、空海がもしその遣唐使船に乗らなければ、次の遣唐使まで 34年を待たねばならず、空海はこの世を去っている。

もし彼に運があれば、船に乗って唐に渡れるのだが・・・。

<明日につづく>