Rewrite:2014年3月26日(水)
生きるか死ぬかの窮地に陥ることで、放り出して逃げる人がいる一方で、にわかに強くなる人がいる。以下の物語は実話を題材にした。
今は苦境を乗り切ったおかげで、魅力あふれる会社に変貌を遂げたが、その歴史は苦難の連続であり、むしろ苦難のおかげで成長した会社の見本のようでもある。少々長いが、まずはストーリーを追ってみよう。
例によって、社名ならびに登場人物は仮名であり、業界も変えている。
———————————————————————–
専務:「まずいことになりました、やがて仕事がなくなりそうです。」
常務:「今のままでは来年には会社がなくなる。」
社長:「バブル期で我々は100年分の建物をたててしまった。根本的に方向転換しないと、このままでは会社はあと半年しか持たないはずだ」
「株式会社ツノムラ設計」の経営会議で緊急対策が議題にのぼったのは平成2年の夏のことである。バブル経済が崩壊し、建築設計業界をとりまく環境は一変したのだ。ゼネコンなどと並んで、景気悪化の影響をいちはやく受けやすい業界である。
公共工事の仕事が減って、官公庁相手の営業だけでは仕事が回ってこない。
「こうなれば格好なんかつけてられない」とばかり、半年前から団地への飛込み訪問をして住宅設計の確保を狙った。文字通り、社運をかけて20名の社員の大半が営業に出た。しかし、結果は出なかった。ご多分にもれずツノムラでは、自社ビルを前年に建設し、年間の売上高を大幅に上回る借金を背負っていた。新卒学生の定期採用も始めており、一貫して拡大路線を歩んできたのだ。受注のストップは、そのまま深刻な資金繰り悪化に直結した。
社長:「官庁も個人住宅も期待できないとなれば、背水の陣で商業建築の分野を攻めるしかない」
常務:「しかし社長、ウチの社員は誇り高き設計士の集団ですよ。商業建築の設計はやりたがりません」
専務:「常務、なにを寝ぼけてるんだ。会社があってこその主義主張だろう。ここは何があっても理解を求めるのが我々の義務だ」
こうしてツノムラでは書店業界を攻めることにした。その理由はかつてツノムラが、斬新なコンセプトによる郊外型大型書店を設計し、三重県内で大成功をおさめていたことによる。
社長:「花丸書店さんの成功事例をひっさげて書店業界を攻めよう。ところで販促費用は幾らぐらい使えそうだ?」
専務:「ゼロと言いたいところですが、100万くらいなら何とか・・・」
社長:「よし、その100万をすべて広告宣伝に投入だ。」
日本経済全体の冷え込みには加速がついていた。とは言うものの、すべての産業が一気に減速したわけではない。事実、書店業界ではパソコン関連書籍や、文庫本、コミック、パソコンやゲームのソフトなど、複数の成長分野を抱えており、新しいスタイルの大型店は今後の成長が見込まれていた。が、このとき津野村たちはそうした書店市場のことは知らない。花丸書店の成功だけが唯一の頼みの綱だった。
ツノムラ設計の津野村社長は昭和20年生まれ。三重県内で漁師を営む家族の三男として生まれ、元来が独立志向旺盛だ。夢もデカイ。「自分の人生は、何かの分野でメジャーになるためにある」と大手の「N設計」や都庁を建てた「T設計」、女優を妻にもつ「K設計」などを越える存在を目指してきた。しかし、そうした夢とは裏腹に、目の前の問題として、会社は倒産の危機に瀕していたのだ。
設計士ほど営業展開がむずかしい仕事はない。なぜなら顧客が明確でないのだ。いざ営業をかけるとは言っても、間口が広すぎて的がしぼれないのだ。市場の絞り込みという冒険が戦略的に正しいのかどうか、誰にもわからない。しかし、書店業界を攻めることを役員会決定した。
書店経営者向けの月刊専門誌がある。80万円の広告費を使って、その雑誌に3ヶ月連載で広告を出した。すでに同業他社も広告を出していたが、事務所の名前を訴える程度にとどまっていた。ツノムラはページ全面を使った意見広告を出した。雑誌掲載から一ヶ月が経過した。何一つ反応はない。翌月も反応はゼロだった。作戦失敗ムードが漂う3ヶ月目、ついに一本の電話が茨城県から入った。津野村社長と久保専務は新幹線に乗った。
この出会いが津野村に幸運をもたらすのか? <明日に続く>