フランスに「新進気鋭の建築家」と言われたヴァブルという男がいた。「ミラクルボーイ」とあだ名されるほど才能豊かな若者だった。有り余る才能は建築以外の分野でも発揮され、あるとき作家に転身した。
出版社に『便利品の厄介に関する考察』という本を企画提案し、会議を通った。マスコミもその本の話題を取り上げ、世間からも注目されたが、ヴァブルは原稿を書かずじまいに終わった。ヴァブルには、ムラッ気という欠点があった。
シェークスピアの作品を誉めちぎっていたヴァブルは、あるとき、シェークスピアのフランス語翻訳を決心し、単身でロンドンに渡る。英語を学ぶためにフランス語を一切話さず、フランス語の活字まで遠ざけた。髭も全部そり落として、身も心もイギリス紳士になろうと努めた。
それから何年かが過ぎた 1843年のこと。フランスの作家、テオフィル・ゴーチェが、ロンドンの酒場でヴァブルとばったり再会した。もう充分に研究が進んだはずなのにまだシェークスピア翻訳をしないヴァブルを皮肉ってこう言った。「シェークスピアを訳すのに、あとはフランス語を勉強するだけだね」しかしヴァブル「うん、そうするつもりだ」と平然と返事した。
結局、何年経ってもヴァブルはシェークスピア翻訳を出さなかった。
ずいぶん後のこと、今度はパリの居酒屋でテオフィル・ゴーチェとヴァブルは再会した。すっかり老けこんでいたヴァブルは、ゴーチェにこう息まいた。
「フランスのヴィクトルユーゴーが書いた『エルナニ』をイギリス人に、シェークスピアの『マクベス』をフランス人に紹介するんだ」
結局それも実現されないまま、ヴァブルは出版の世界から姿を消し、行方も知れなくなった。
<出典:『万国奇人博覧館』(筑摩書房)>
私はこのエピソードを読んで、他人事ではないと思った。大なり小なりヴァブルのようなところは誰でも持っていると思うが、その傾向が強い人は、意識してまず一つ、何かのことを成そう。
そして、「私は有言実行の人なんだ」ということを自らに証明することがヴァブルさんのようにならないための方策だと思う。