日本人は村社会ゆえ、諸外国に比べ、世間の噂や評判を気にしすぎる民族だという。
「寺内町の武沢さんのご長男、こんど○○高校の入試に失敗したんですって。」
「へぇ、そうなの。お気の毒に。だいたい、普段から遊びすぎよね、あの子。」
こうした風評を親が気にし、本人も無意識に気にする。そうした村社会の習性を知りつつ、あえて坂本竜馬は言った。
「世の人は我を何とも言わば言え 我がなすことは我のみぞ知る」
人からどう思われようと、自分は自分の道を行くという孤高の生き方がここにある。
その一方で、「人からどう思われるかがすべて」と断定した武士道の生き方がある。武士道の道徳は、きわめて外面を重んじたのである。絶えず敵の存在が予想され、戦士たるもの敵の目から恥ずかしく思われないか、卑しく思われないかという点に自分の体面とモラルのすべてをかけた生き方だ。
このような、外見や世間の評判を気にする生き方もまんざら間違ったものではないようだ。
『葉隠入門』(新潮文庫)の作者・三島由紀夫は次のように語る。
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なによりもまず外見的に、武士はしおたれてはならず、くたびれてはならない。人間であるからたまにはしおたれることも、くたびれることも当然で、武士といえども例外ではない。
しかし、モラルはできないことをできるように要求するのが本質である。
そして、武士道というものは、そのしおれた、くたびれたものを、表へ出さぬようにと自制する心の政治学であった。健康であることよりも健康に見えることを重要と考え、勇敢であることよりも勇敢に見えることを大切に考える、このような道徳観は、男性特有の虚栄心に生理的基礎を置いている点で、もっとも男性的な道徳観といえるかもしれない。
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竜馬の生き方と武士道を説いた「葉隠」の教えは一見すると矛盾している。だがよくよく考えてみると、ある一点で通じている。それは、「精神の気高さ」である。
自分の立ち居振る舞いや出処進退は、誰を意識したものか?
竜馬の場合は、「おのれ」である。
葉隠の場合は、「敵」である。
だが、相手が誰であろうとも大切にしていたのは、“精神の気高さ”ではなかろうか。「おのれ」のためであろうとも、「敵」のためであろうとも“気高さ”を失ってはすでに武士ではない。おのれに高いモラルを課す立場という点で、企業経営者は現代の武士だ。
気高さとは何か?
広辞苑によれば、「品格が高い」「上品である」などの意味があるが、誰よりも高いモラルを持とうと努力することが大切だと思う。
みずからの本分において妥協しない生き方を指す。「誰も見ていないから」「これくらい、ま、いいか」というような、安易な妥協をしない生き方が大切だ。
この生き方は、冒頭のドラッカーの言葉と相通ずるに違いない。