私には行きつけの靴磨き職人さんがいる。東京へ行くときにはほとんど毎回行くことにしている。
先週の金曜日のこと、難しい質問をぶつけてみた。
「靴磨きにも超一流から三流まであるとしたら、その差は何で生まれるのですか?」
すると思いがけず、ものすごい回答が返ってきた。こんな回答、なかなか出来るものではない。
「靴磨きという仕事に全人格的表現をしようとしているか、いないかの違いでしょう。」と即答した上で、次のように続く。
靴磨きであろうが、芸術家や政治家、実業家だろうが、自分の本業にすべてをかけている人には特有の深みが出てくる。靴磨きの技術だけならば誰だって一~二年もやればそれなりの水準に達する。だが、そこから深まりが出るか出ないかはその人の職業観や人生観が強く影響してくる。
全人格的表現?
そう、自分の本業を深めようと勉強し続けることなんだ。私が哲学書を好んで読むのもそのためだし、芸術や音楽・映画をよく観るのも全部自分の人格を高めるためだし、それが無意識に本業に投影されるものなんだ。
靴磨きって奥が深いねぇ。
三流の靴磨きに聞いてごらん。きっと靴磨きという職業は、単に靴を磨くことだって答えるから。だが私が靴を磨くのは、靴をきれいにするのが目的ではない。
靴のライフサイクルを理解し、今この瞬間にその靴にほどこしてあげるべき最高の処置をするのが靴磨きの仕事なんだ。
靴のライフサイクル?
そう、あなたが今履いているこの靴はきっと今日で10回目くらいに違いない。(その通り)つまり靴が若いんだ。この靴も私に任せてごらん。2~3年も履き込んだらすごく良い靴になるから。表面をキレイに仕上げることは、今この靴に必要としていない。この先10年履き込めるような基礎を作ってあげる段階なんだ。靴にも人生があるんだよ。それに接するこっち側にも人生観がないと、靴に対して対等に付きあうことができないでしょ。
今回は持参した三足の靴を磨いてもらったが、帰りの山手線の中で我が胸に手を当て自問自答した。
私は「がんばれ社長!」という世界を作るためにみずからに人格的高まりを要求しているだろうか?「がんばれ社長!」というメルマガに自分の全人格をぶつけているだろうか。いや、そもそも人格を高めようという目標を持っているだろうか?
いけない、いけないと思いつつ、再発してしまった喫煙。東京の飯田社長と男の誓いを交わしてやめたタバコが復活してしまった。家族や友人、仕事仲間が皆、なげいている。こんなヤワな精神構造で何ができるというのだ。
「それも人間的で良いじゃない。」と弱い私がつぶやくが、やっぱりダメだ。精神は進歩すべきであって退歩してはならない。
三国志時代の中国の話。
知性派・魯粛が、豪傑・呂蒙を訪ねて議論した時、魯粛が呂蒙に言い負かされそうになった。魯粛はびっくりして、『私はあなたが武略一点ばりだと思っていたのだが、今では学識もすぐれてひろく、呉の町(蘇州)にいたころとは見違えた。』と告白した。
すると、それに答えるように呂蒙が言った名言がこれだ。
『士、別れて三日、すなわちさらに刮目してあい待す』
・・・士たるもの三日会わずにおれば、その間にどんな成長をするやも知れず、全く新しい目でもって彼を迎えねばならぬのです・・・
私は「がんばれ社長!」ワールドを作りあげるために人生を捧げているが、そのためには、禁煙はもちろんのこと、刮目してあい待すような成長を自分に期待しなければならないと靴磨き職人さんを通して教えられた。