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弓道の極意

今日は 20年ぶりに我が子と対面できる。待ち合わせ場所は東京駅。当時 8歳の小学 2年生だったあの子が 28歳の立派な青年になっている。どんなに立派なことだろう。無条件に嬉しいが、冷たくされたらどうしよう。それを思うと母として恐くもなる。地方から 6時間かけて上京した。約束の 13時よりも 30分も早く銀の鈴に着いた。さすがにまだ早い。周囲にはそれらしき青年はいないので、椅子にかけて待った。やがて 15分過ぎ、30分過ぎた。13時ジャストになったのに、青年は表れない。「おかしいな」と思って銀の鈴を見上げたら、それは銀ではなく金色をしていた。「わっ、たいへん。ここじゃないみたい」と母はあわてて駅員をさがしに弱った足で駆けだした。駅員らしき人を見つけたのは 10分後だった。銀の鈴の場所を尋ねるとさっき居た場所がそうだと教えられた。東京駅の銀の鈴は金色をしているというのだ。「そんなおかしな話ありますか」と言いながら、母がふたたび銀の鈴に戻ったときには 13時30分になっていた。結局母は 17時まで銀の鈴の前で立ち尽くしていたが、息子に会うことはできなかった。おそらく空白の 30分の間に息子があらわれていたに違いない、きっともう一度私を探しに来てくれるに違いないと思うと、母はその場所を立ち去るわけにはいかなかった。

これは架空のお話である。絶対会えると思って楽しみにしていた息子に会えなかった母親の悲しみと痛手はいかばかりなものか。目標への意識が高い人がもし、あとわずかのところで未達成におわった悔しさと同じだと思う。

そのあたりを弓道の極意はどうとらえているのかみてみよう。弓道は的に矢を当てる競技だが、その極意は的と矢は別々のものではなく、互いがひとつになっておのずからあたるものだという。つまり、矢の連続が的である。あなたは弓から矢を射はなつのではなく、的が弓の弦(つる)に働きかけ、その力で矢を引きつけ、やがて合体する。したがって、矢と的は対立するものでもなければ、ターゲットとして立ち向かう相手でもない。切っても切りはなせないひとつのものなのだ。

弓道の達人からみれば、的も弓も矢も一切がすでに我であり、心のおもむくままに発すればすなわち矢と的が合体する。親と子は必ず出会うものであって、そのまま出会えなかったとしたら、悲劇である。達人に悲劇はあり得ない。最初から一緒なのだから。

的を目標、弓をあなたと考えることもできる。一体なのだから必ずあたる。弓道の達人と目標達成の達人はおそらく同じ境地で的を認識しているに違いない。競ってはならない。一体化するのだ。矢を射る前に一体化する作業が必要なのだ。

<参考:『丸山敏夫一日一語 PHP 159ページ』>