昨日のつづき。
プロのサッカー選手になるという夢をあきらめた昇一は、高校・大学では、あえてサッカーから離れることにした。友人とサッカーの話題をするのも避けた。同世代の多くがビッグな夢を追いかけてがんばっている最中だ、それを断念した自分を受け入れるためには、かさぶたができるのを待つしかない。
もっとおもしろいものを見つけようと、スキー、スケート、ダイビングなどのスポーツや、旅行、ヒッチハイク、史跡巡り、など文化的なものまで何でもアタックした。なかでも一番肌にあっていたのは音楽で、とくにパンクロックに熱中した。そのころ、パンクロック専門のバーでアルバイトをしていた豊子と出会い、すぐに意気投合し交際をはじめた。
いつも笑っているようにみえる豊子の優しい目がどことなく母に似ていた。そんな豊子に会うたびに昇一の心は癒されて、ふたたび闘志がわいてくる気がした。元来がやんちゃで行動的な昇一は、ある年の花見の席で「会社を起こして億万長者になる!」と宣言した。その月、アルバイトで貯めた資本金 10万円で株式会社を設立。昇一 21歳、豊子 22歳の春である。
「何の会社やるん?」と心配顔の豊子。「ネットで勝負しようと思う。格安仕入れサイトから商品を仕入れて上手に売ればすぐに月商 100万はいけるはず」と昇一。「学校はどうするん?」「もちろん卒業する」「ふ~ん、じゃ私も手伝うわ。無給でいいからやれそうなことは何でも言って」
そのころ昇一の両親は仕事の都合で千葉に住んでいた。学生で起業すると聞いてすぐに昇一がいる名古屋のアパートに飛んできた。「これ役立ててくれんか」と、父は風呂敷で包んだまんじゅう箱を手渡した。あけるとびっしりと新聞・雑誌の切り抜きがあった。すべて、ネットビジネスの成功に関する切り抜きで、息子を心配する両親が図書館などで集めてきてくれたものだった。
それから 4年経つ。
昇一と豊子は大学を卒業し、ふたりがはじめた会社にはスタッフが何人か入ってきてくれた。顧客も全国にひろがった。
そして今年の 8月 25日(日)、25歳になった昇一は、豊子を入籍し、名古屋市内で結婚披露の宴を催した。
「会場は名古屋の全日空ホテルで 100名規模の披露宴になる」と聞いて昇一の父は耳を疑った。そんな立派な会場?そんなに大勢の皆さんに来ていただける?
今、昇一が経営する「株式会社 N」はコンテンツ・プロデュース・ビジネスの先駆けとして成長している。スタッフも昇一、豊子を中心に 5名規模となり、億単位の売上をあげている。
「武沢社長にも是非」といわれ、私も披露宴に参列した。日本を代表する手羽先チェーンのオーナーをはじめ事業で成功しておられる経営者、ビジネス書でヒットを連発する作家、沖縄の歌手など多士済々。そんななかで主賓の方はこんな挨拶をされた。
「今日、昇一と再会するのは 13年ぶりのことです。私の教え子は数百人いますから彼らの結婚式には出ないと心に決めてきました。だけど先日、昇一から久しぶりの電話をもらって今日のことを聞いたとき、何があっても出たいと思いました。昇一は第三ゴールキーパーでしたが、その昇一が正ゴールキーパーをめとったわけですから、これほどうれしい報せはありません。ただ、私も現役の監督ですから、もし公式戦が今日に組まれたら出席できないぞ、と伝えてありました。その後、神は今日という日をあけてくれました。本当にうれしいし、心からおめでとうと言いたい」
中学三年間でお世話になったサッカークラブの監督だった。
宴がはじまり、昇一は監督に挨拶した。
サッカーで挫折した僕ですが、それでも監督に今日の姿をみてもらいたかった。私のなかで恩師と心からよべるのは監督だけです。いま僕は順調に会社経営をやっていますが、それでもまだこの先、サッカーの挫折のように会社の挫折、倒産などがあるかもしれない。そうならないようにがんばりますが、たとえこの先何があったとしても、監督から学んだことと、豊子の存在があれば僕はやっていけると自信をもって監督に宣言させていただきます。
監督は昇一に返答した。
おー、いいだろう。その言葉、忘れるなよ。それより、オレにスピーチの依頼をしながら、一番バッターとは言わなかったぞ。それならそれの準備ってものがある。この怠慢はビンタ一発に値するが、今日に免じて貸しておく。この貸しを忘れるな!
はい!
お互いどこまで本気なのだろう。新郎の昇一はタキシード姿ながら、中学生のように ”気をつけ” をしていた。