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ゾルバ・ザ・ブッダ

「お客さん、『衆生所遊楽(シュウジョ・ショ・ユウラク)』って知ってるかい?人生は遊び楽しむために生まれてきたんだ、という教えだよ。ところがどうしたい?こんな寒い日に靴をどろんこにしてまで仕事するなんて、辛くはないかい?」

ここは、東京駅丸の内側の靴磨き。私の靴の汚れかたをみて、飛び込み訪問を続けるセールスマンとでも思ったのだろうか。実は雨の土曜日にディズニーランドを歩き回ったにすぎないのに。

「お客さん、『衆生所遊楽』ってのはね、法華経の教えでもあり、私の人生哲学でもある。ところが実際にはこうして寒風のなかでも仕事したり、なかには嫌なお客も来たりするよね。人生を遊び・楽しむのとは180度違う現実があるが、それを乗り越えるすべを持っていないと人生問題だらけだ。そこで悟りが必要になるんだよ、悟りが。」

「おじさんは悟ったの?」

「来年還暦だけど悟りなんてとんでもない。どうも特定宗教ってのが苦手でね、いまだにこうして思想哲学関係の書物を読んでは、悟りに近づこうとはしてるんだがね。」

「へぇ、どんな本?」

こうして紹介されたのが、『存在の誌』(和尚著・めるくまーる社刊)だ。あいにく八重洲ブックセンターにはなかったので同じく和尚著の『源泉への道』を購入した。同時に、和尚の活動を知るために、80ページほどの小冊子『瞑想・・内なる世界への扉』(市民出版社刊)も買った。和尚の本はすべて講話の内容を第三者が編纂したもので、複数の出版社から何十冊も出ている。

80ページの小冊子を先ほど読み終えたところだが、非常に奥が深く、充分に咀嚼できていない。従って感じたことだけを書こう。

私たちは経営活動のなかで、利益を得るという商行為と、高潔な志や理念を実現・実践するということとを同一線上にとらえなければならない。それらは、矛盾するものでも敵対するものでもない。ましてやそれぞれが別世界の話でもない。

それは、和尚が「ゾルバ・ザ・ブッダ」という講話のなかで語っていることから私が感じたものだ。その「ゾルバ・ザ・ブッダ」とはなにか。

まず、ゾルバとは、映画『その男ゾルバ』や「ゾルバダンス」で有名なギリシャ人である。食べて、飲んで、浮かれて騒ぎ、たくましく、情熱的に生きた、とにかく陽気な男だ。まさしく『衆生所遊楽』を実践した人物のようにみえる。

かたや、ブッダとは、仏教の開祖である仏陀(釈迦如来)のことである。 ゾルバとは逆に、僧侶のように沈黙と注意深さを保ち、動くことなく座ること、情熱的ではなく冷静であり、浮かれることなく慎ましやかである存在がブッダだ。

和尚は、この対極にある二人を説明したあと、そのどちらの生き方を選択させようとするのではなく、その統合が必要だと語る。情熱と欲望によって動いているゾルバでありながら、感情に揺さぶられることなく冷静で穏やかなブッダであることが可能であり、それこそが究極の統合だというのだ。

その統合は、ギリシャ人ゾルバではなく、ブッダのゾルバなのだ。それを「ゾルバ・ザ・ブッダ」という。