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続続・どんどん焼けからの復興

”カッコーン”という鹿威し(ししおどし)の音が静寂をやぶる。やぶられるからその後におとづれる静寂がまた際立つ。日本庭園によく見られる鹿威しだが、最初から風流を愛でるためにつくられたものではないようだ。

鹿(しか)を威す(おどす)と書いて「ししおどし」と読ませる。獅子をおどすわけではなく、もともとは鹿害(ろくがい、鹿による農作物の被害)に困った農家が鹿をおどして追いはらうために作ったものだが、いつしか風流のための音響装置として使われるようになった。

特に京都の詩仙堂のそれは有名で、たたみに座って庭を眺めながら鹿威しを楽しむ。ただそれだけで一時間も二時間もすごせる場所である。京都の社寺では四季折々の庭を楽しむことができるが、それを支えているのは豊富な水資源である。京都の地形は南北に 150キロある。北部と南部の水は河川や地下水でまかなうが、中心部の京都市内では明治時代に建設された「琵琶湖疎水」(びわこそすい)の水が今も主要な水資源になっている。

先週ご紹介した「NHK 歴史秘話ヒストリア 明治の京都へおこしやす」。幕末に起きた禁門の変で京都全体が焼け野原になった。しかもその数年後には天皇が江戸へ移り住み、国の中心は名実ともに江戸(東京)に移った。京都の人は嘆き悲しみ、人口は 3分の2に減った。「このままでは京都が完全に没落する」と危機感をもった当時の人々は外国人の観光誘致に活路を見いだす。そして街をあげて、あの手この手の「おもてなし」によって、開国したばかりの日本に京都というすばらしい街があると海外に猛アピールした。つまり観光都市・京都という戦略を明確に打ち出したのである。

次に行ったのが明治 18年から明治 23年にかけて開発が行われた琵琶湖疎水の完成である。そのきっかけとなったのが当時 21歳学生だった田辺 朔郎(たなべ さくろう)の卒業論文『琵琶湖疏水工事編』だった。その論文が京都府知事の目にとまり、乞われて京都府所属の主任技術者になった。その田辺が自ら陣頭指揮をとって開発したのが琵琶湖疎水である。琵琶湖の湖水を京都にひっぱるための水路である。これができたおかげで京都には生活用水や農工業用水がふんだんに入り込むようになった。

それだけではない。物流の大動脈としても琵琶湖疎水が使われるようになった。それ以前の物流といえば、人や牛が運ぶものだったが、疎水の完成によって各地のおびただしい産品が京都に入り込むようになった。さらには、疎水をつかっての水力発電が行われるようになり、京都に電灯がともり、電車が走るようになり、大工場が建ち並ぶようになった。街の近代化に成功したのである。

こうして京都が心をひとつにして取り組んだ結果、焼け野原から 25年後には見事復興し、観光都市・京都、近代都市・京都が誕生したわけである。

★歴史秘話ヒストリア 明治の京都へおこしやす
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