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続・読書考

昨夜は友人と会食し、今、渋谷でこの原稿を書いている。昨日のマガジンは読書について。今日も続きがある。日本経営教育の石原さんから、読書に関して意見を頂戴しているのでまずはご紹介しよう。

【読書の仕方】

読書には二つの方法があります。

1)広く知識や情報を集めるための読書
2)自分の哲学を身に付けるための読書

まず、その前になぜ本を読まないか(読む習慣が無いか)というと、それは、『おもしろい本に出会ったことが無いから』だと思います。こういう場合は身近な人(出来れば尊敬する人)で本をよく読む人に「私に向いてる本はありませんか」と聞いてみることをお薦めします。

その本を読んでおもしろいと思ったら、お薦めはその著者の本を出版順に全部読んでいくことです。これ、一人だけだと考えが偏りますから最低五人くらいすると知識のベースが出来るようになると思います。知識をさらに広げるために、次のお薦めは、良かった本の中で紹介している本を読んでいく方法です。このコツをつかむと、本は幾重にも重なっている・・まるでネットサーフィンをしているように・・・というのが分かります。

わたしは残念ながら、まだこの一冊って本に出会っていませんが、本棚の一番いい場所に、くり返し読みたい本のコーナーを作っています。本を読んでいて、愕然としたり、驚きで息がとまりそうになった体験、そして良い本に出会った時の感動、先人への感謝・・読書ってほんといいですよね。最近事務所が狭くなったので、かたずけをしたらなんと本が1200冊もありました。

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石原さん、感謝します。
次は読書に対して警鐘を鳴らす意見を。

今から150年ほど前の哲学者ショウペン・ハウエルは我々の読書のあり方に関して次のような警句を残している。

『読書について』(ショウペン・ハウエル著、岩波文庫)より引用

読書は他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。習字の練習をする生徒が、先生の鉛筆書きの線をペンでたどるようなものである。だから読書の際には、ものを考える苦労はほとんどない。自分で思索する仕事をやめて読書に移る時、ほっとした気持ちになるのも、そのためである。だが読書にいそしむかぎり、実は我々の頭は他人の思想の運動場にすぎない。そのため、時にはぼんやりと時間をつぶすことがあっても、ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失っていく。
(中略)
彼らは多読の結果、愚者となった人間である。なぜなら、暇さえあれば、いつでもただちに本に向かうという生活を続けて行けば、精神は不具廃疾となるからである。

厳しいなぁ、あまりにキツイですねハウエルさんは。
ならば彼は本を読むなと言っているのか?

それも否である。

この小論を読んでいくと、「悪書を読むな、名著を読め」と説いている。“今”は、悪書が粗製濫造されていると嘆く。そして人々は、読まなくても済むはずの本を読み、読むべき本を読んでいないと、警告を与える。そして“時代遅れにならないための読書”なるものがいかに無意味で危険なことであるか、また、いかにして読まずにすます技術を身につけることが大切であるか、ということまで書いている。

なるほど、書物を取り巻く環境はいまも昔もかわらないようだ。

せっかくなので、もう少しハウエルさんにご登場願おう。

多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。つまり精神は、たくさんのことを次々と重ねて書いた黒板のようになるのである。したがって読まれたものは反芻され熟慮されるまでには至らない。だが、熟慮を重ねることによってのみ、読まれたものは、真に読者のものとなる。食物は食べることによってではなく、消化によって我々を養うのである。それとは逆に、絶えず読むだけで、読んだことを後でさらに考えてみなければ、精神の中に根をおろすこともなく、多くは失われてしまう。

なるほど、この部分思い当たる。手をふるわせながら読んだ感動の名著も、それを反芻しない。間もなく次の書籍を読み始めている自分がいるのだ。感動したことは長く記憶に残るが、内容は50分の1も覚えていない。

明日は、ハウエルさんのおすすめする読書法をご紹介しつつ、「がんばれ社長!」が提唱する経営者と読書の関係についても踏み込んでみたい。