Rewrite:2014年3月21日(金)
新潟県長岡市では、「米百俵デー」や「米百俵賞」というものがある。この「米百俵」の由来がすさまじい。
司馬遼太郎の小説「峠」の主人公、河井継之助の活躍でおなじみの長岡藩は、戊辰戦争の戦火で、廃虚と化した。藩士たちの生活は苦しく、食うや食わずの毎日がつづく。明治3年、困窮した長岡藩を見かねて支藩・三根山藩より救援米百俵が贈られることになり、藩全体が歓喜にわいた。
「これで一息つけるぞ!」・・・米の配分を一日千秋の思いで待つ藩士や領民。そこへ、やがて藩からの通達が出た。それは、「この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入に充てる」というものだった。
「何をばかげた・・・、米を売るだと?餓死者が出はじめているのに」藩内は騒然とした。
大参事・小林虎三郎は、「その日くらしでは長岡は立ち上がれない」と、教育の大切さを説く。そして新生長岡のため、藩は百俵の米を売却し、その代価を国漢学校の費用に充てた。これが有名な「米百俵」の故事であり、山本有三の同名の戯曲により広く知られることとなった。
小林虎三郎(1828~1877)は佐久間象山に学び、その才能が非凡で吉田寅次郎(松陰)とともに「象山門下の二虎」と称された人物。小林は、米の配分を迫る藩士に、藩の家訓「常に戦場にあり」の掛け軸を見せて我慢を説き、「米を家中の者に分けてしまえば、1日か2日で食いつぶしてしまう」「国が興るのも、ほろびるのも、ことごとく人にある。人物を養成したいのだ」と長岡の教育再興を訴えた。集中砲火のような非難を浴び、鬼のようにののしられながらの米売却であり、教育断行であった。
このときに建てられた「国漢学校」の一部は、旧制長岡中、長岡高などに受け継がれ、後年、元帥・山本五十六、東大総長・小野塚喜平次、司法大臣・小原直、駐米大使・斎藤博、洋画家・小山正太郎らの人材を輩出する。
「ありとあらゆるコスト削減をする中で、巨大な教育投資をすることに矛盾はない」とはGEのジャックウエルチ氏のことば。
組織には、製品やサービス、システムや経費構造など、あらゆるものに対して新陳代謝をくり返す能力が求められる。
今日の常識があすの非常識になる時代だ。知識や技術がその鮮度を維持できる時間は長くて4~5年。それ以前の知識や技術は通用しない。いや、陳腐化した知識はすぐさま捨てないと命取りにすらなる。それを支えるのは、ひとえに人材育成であり教育だ。会社は学校じゃない、といって自己啓発・自己投資だけが頼りの教育制度では立ちゆかないのである。