●愛媛の松山中学や熊本の第五高等学校で英語の教師をやっていたころは、肺結核や神経衰弱、ノイローゼ、胃潰瘍、(晩年にはリューマチと糖尿病と痔)などに悩まされた。
当然、ふさぎこむことが多かった若き夏目漱石。
極度に気分がふさいだときなどは、妻・鏡子に離縁状をたたきつけたこともある。また、妻も、漱石との結婚三年目には流産のためヒステリー症が激しくなり投身自殺(未遂)を図っている。
●この頃の二人は順調な夫婦生活とはいえなかったし、おそらく家の中もかなり暗かったろう。時には妻や子に暴力をふるうこともあった漱石だが、それでも夫婦仲は決して悪いとも言えないようで、「病気が元でそうしているので、治る見込みがある以上、離縁はしない」と鏡子は言っている。
漱石も鏡子がいつ自殺するかわからないので、就寝の際には二人で手首に糸をつないでいたという。
●その後、漱石は文部省の命令でロンドン留学するがそこでも辛辣な人種差別と言葉の壁でノイローゼがひどくなった。下宿屋の女主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥った。
ついには「漱石発狂」という噂が文部省内に流れ、急遽帰国が命じられた。
●日本にもどって東京帝国大学、第一高等学校などで講師をつとめた漱石だが、叱責した教え子が華厳の滝へ入水自殺し、いよいよ神経衰弱が進んだ。この頃、妻とも二ヶ月別居している。
どこからどう見ても、どん底の家庭にしか思えない。
その間、何人かの子をもうけたが漱石は可愛がってやる様子もなく、長女・筆(ふで)が生まれたときにはこんな句しか詠めず、後に娘に失望された。
「安々(やすやす)と 海鼠(なまこ)の如き 子を生めり」(漱石)
●そんな漱石だが、学友であり親友でもあった正岡子規を通して文学仲間と交流することが楽しみだった。やがて俳人・高浜虚子(たかはま きょし)に強くすすめられて小説を書いてみることにした。
時に1904年、漱石37歳の時である。
●ちょうどそのころ、椿事があった。
自宅に一匹の黒い猫がやってきたのだ。もともと漱石は犬好きの猫嫌い。夫人が何度もつまみ出すのだが、そのたびに入ってくる。
ついに漱石も「そんなにここが好きなら飼ってやるといい」と折れた。
●晴れて家猫になった猫は、畳に腹ばいになって新聞を読んでいる漱石の背中へ平然と乗ったりする。だが、決して嫌がらない漱石。
ある日、知人が遊びにきたとき「この黒猫は足裏の肉球まで真っ黒なので、これは福を呼ぶ黒猫だ」と言った。
●その日からいっぺんに猫の待遇が変わった。
文机の原稿用紙に向かい、すらすらとペンを動かした。それは猫が主人公の小説だった。
・・・
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。
吾輩はここで始めて人間というものを見た。
・・・
そんな原稿だった。
●ある程度書いてから虚子(きょし)に見せたら大いに満足してくれた。そこで漱石は虚子に聞いた。
「この小説のタイトルを『猫論』にしようか、『吾輩は猫である』にしようか迷っている」
文学者の虚子は「吾輩は猫である、がよろしい」と即答し、漱石はその場で原稿にタイトルを書き入れた後の文豪・夏目漱石のデビュー作誕生の瞬間である。
●その頃の様子を妻・鏡子は「ペンをもって原稿用紙に向かうと自然に小説ができている、という状態でした」と語っている。
ほかの仕事をしているときとは別人のように穏やかで、時にはにこやかな表情で執筆する漱石。
その本が大ベストセラーになって経済的にも恵まれたせいか、子ども達を愛する穏やかな父親・漱石になっていった。
●間違いなく漱石一家の”福猫”となった一匹の猫もいつしか年をとり、息を引きとるときがきた。
墓を立て、黒枠のハガキで門下生に喪状を出した。続々と弔句が届く。
寺田寅彦 みみず鳴くや冷たき石の 枕元
驚くな顔へかかるは 萩の露
高浜虚子 ワガハイノ カイミョウモナキ ススキカナ
鈴木三重吉 猫の墓に 手向けし水の 氷りけり
漱石も猫も本望だったろう。
●実はその後も漱石の病状は一筋縄ではいかず、不機嫌な日が続くのだが、職業作家として大成功した。それどころか文豪・夏目漱石にまで上りつめるのだから、夫婦としては文句を言えまい。
結局、漱石は小説「明暗」を執筆途中の大正5年、49歳10ヶ月で亡くなった。
●漱石最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここにみずをかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。
いかにも漱石らしい。
一方、妻・鏡子は昭和38年4月、東京大田区の自宅で大往生を遂げた。
享年85歳だった。