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続・貧乏自慢

●戦後間もないころのように日本中が貧乏なころはよかった。自分だけじゃないから、ひもじくても我慢できたしボロボロの長屋に住んで古着を着ていても恥ずかしいとは思わなかった。

●ところが回りがどんどん豊かになっているのに、自分だけが貧乏というのは辛い。ましてや人間、50にも60にもなっていまだに金がないし家もない、借金できる信用もないとくると人生の失敗者みたく思えてくる。

●「あ~あ、オレ、どこで間違っちゃったんだろうな」とため息が出る。
志ん生(古今亭、五代目)もそうだったらしい。
あれほど、笑いを取った落語家はいないと思うし、落語家仲間からも愛された芸人はめずらしい。そんな志ん生でも自殺未遂をおこしているのだ。彼が56才の時である。

●昭和21年、戦争が終わってもう一年もたつというのに満州の大連にいる志ん生や円生たちに迎えの船は来ない。

希望がないだけでなく、現実の問題として金がない、食うものもない。
寒さをしのぐものもない。知り合いの医者に頼って青酸カリを分けてもらおうとしたがそれも「ない」と断られる始末。

●「それならば」と志ん生が考えたとっておきの自殺法が「ウオツカ」だった。

「グラス二杯がいいとこ、それ以上はいけません」と忠告されていたウォッカが棚に7本もある。あれをひと思いに飲んでしまえば腹が焼けてすぐに死ねるだろうと考えた。酔ったまんま楽になれるのだから、これ以上うまい死に方はない。円生がいない平日の昼間を見計らって作戦を実行した。

●(グビッ、グビッ、グビッ・・・、フ~)

三合ぐらいの瓶に入ったウォッカを三本ほどあけてみたが、別に何ともない。だが、もう一本あけたあたりで腹んなかがカッカと燃えてきた。

(え~い、この勢いだ!)

もう二本あけたところでさすがにぶっ倒れた。グラス二杯で酔っぱらう酒を六本も一気に空けたのだから体中が火事になった。

(ようやく死ねる)
と失神した。いくばくかの時間がたったろうか、

「おい、美濃部、孝ちゃん、しっかりおしよ・・・」という声が聞こえてきた。

●「エンマ大王の声にしては優しい声だ」と思った。ひょいと目をあけると円生だった。うすぐらい電灯がぼんやり灯っている下で、円生が看病していてくれたのだ。

頭は割れそう、腹は火事のようにあつい。その苦しさは本当に死にそうだった。

●結局、十日ほどで内臓のただれもケロッと治った。死ねなかったのだ。若いころから電気ブラン(神谷バー)や焼酎で鍛えていた胃袋のおかげだ。

そんな志ん生も、57才になる翌年(昭和22年)、ようやく満州から日本に戻ってくることができた。
突然のことで家族がビックリした。帰国できたことはうれしいが、敗戦によって日本中が貧乏になっているから、まだまだ貧乏が続く。
だが仕事はあった。休む間もなく新宿末廣亭で高座にあがり続けた。

●その4年後に西日暮里にはじめての家をもっているから、「稼ぐに追いつく貧乏なし」だったのだろう。

多忙を極めるようになった60才の志ん生は、「たまにのんびり温泉でも」と周囲にそそのかされて奥さんと旅行に行ったことがある。

●だが、「のんびりするなんてことはとても辛抱できない」。
一日なら我慢するが、次の日にはもう勝手に帰ってしまう。志ん生が帰れば奥さんも着いてくるから、結局二人で家に帰って退屈な休日を過ごすことになる。

●「よそへ出かけること自体が面倒くさい」というほどの無精者。おまけに三拍子そろった道楽者の志ん生だが、芸をみがく熱心さだけは人一倍だった。家にいても散歩していても落語のネタを一人で演じている。それがあるから奥様も神様も見捨てなかったのだろう。

●このメルマガを書くにあたって私も、志ん生の「びんぼう自慢」をかみさんに話してみた。するとこんな言葉が返ってきた。

「わたしゃ貧乏より志ん生(身上、しんしょう、財産のこと)が好き」

偶然のシャレにしてはよく出来ている。