弱い自分に支配されるのでなく、強い自分が一日を支配するようになろう。そのために仏教では「八正道」や「六波羅蜜」の実践など、自分を高める仕組みを教えている。
そのような話をすると、時々こんなことを言われる。
「武沢さん、人間には欠点や弱点がつきものですし、それがあるから人間らしくていい。一度かぎりの人生ですから、ありのままに楽しく自由に生きればそれで良いのではありませんか」
たしかに欠点や弱点も人間のお愛嬌というのはわかる。だが、それは程度問題だし、他人がくれる慰めである。本人がそれに甘えてしまっては改善も進歩もない。
「ビジョナリーカンパニー」の著者ジム・コリンズは偉大さを追及しようと訴えた。ところがジムのもとには、偉大にならなくてもそこそこの成功で十分ではないか、という類いの意見もたくさん届いたようだ。それに対してジムはこんな名言を述べている。
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本当に問題なのは、”なぜ偉大さを追求するのか”ではない。”どの仕事なら、偉大さを追求せずにはいられなくなるのか”だ。なぜ偉大さを追求しなければならないのか、そこそこの成功で十分ではないのか、と問われなければならないのであれば、おそらく、仕事の選択を間違えている。
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「pay the price」(代償を支払う)という英単語がある。何かを手に入れたければそれにふさわしい代償を支払いなさいというメッセージが込められてる。手に入れたいものが本人にとって意味あるものであればあるほど支払う代償は大きくても平気だ。要するに目の色が変わるのだ。
目の色が変わる好例が黒澤明監督の『生きる』の主人公・渡辺勘治だろう。(以下、映画のあらすじ)
市役所の市民課長だった渡辺勘治(志村喬)は、かつて持っていた仕事への情熱を完全に忘れ去っていた。くる日もくる日も書類の山に向かってただ黙々と判子を押すだけの無気力な日々を送っていた。市役所内部は縄張り意識がはびこり、住民の陳情はたらい回しにされた。ある日、渡辺は体調不良で医師の診察を受けた。軽い胃潰瘍だと告げられた渡辺だが、実際には胃癌にかかっていると悟り、余命いくばくもないと考える。不意に訪れた死への不安などから人生の意味を見失ってしまった渡辺は、市役所を無断欠勤し、これまで貯めた金をおろして夜の街をさまよう。そうした中で出会った一人の女性に刺激を受け、見失っていた生きる情熱をとりもどしていく。それから5か月後、渡辺は死んだ。通夜の席で、同僚たちが渡辺のうわさをしていた。それは役所に復帰したあとの渡辺の仕事ぶりだった。渡辺は復帰後、頭の固い役所の幹部らを相手に粘り強く働きかけ、ヤクザ者からの脅迫にも屈せず、ついに住民の要望だった公園を完成させ、雪の降る夜、完成した公園のブランコに揺られて息を引き取ったのだった。
私がこの映画で一番印象に残っているセリフ。
「渡辺さん、あんなひどいことを言われて悔しくないのですか?」そう後輩が言う。
「さぁ次へ行こう。僕には腹を立てているヒマはないのだよ」と渡辺。
住民のために公園を完成させる、という生きる目的をもった渡辺は病魔と戦いながらも命をかけるに値する目標に立ち向かった。無気力だった渡辺とは別人のような目力がそこにあった。
今日のポイント:
目的や理念、価値ある目標に目ざめると「出身の活路」を得て人は大きく変わる。
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