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口べたパウロ

●時々、「口べたを克服したい」という経営者に出会う。座談はそれほど下手ではないが、プレゼンやスピーチになるとうまく話せないという。

●もちろん上手に話せるに越したことはないが、「話す」というスキルがその人にとってどれだけ重要なのかは目標や立場によって異なってくるだろう。
たとえば、政治家になろうという目標がある場合は、「話す」スキルはきわめて重要な意味をもつ一方、小説家になる人には大して重要とは言えない。

●「大統領になる」と夢見ていたエイブラハム・リンカーンは若い頃、村人から「ヒマ人の口べた」と笑われるほど口べただった。
スピーチ力を身につけなければ、大統領どころか政治家にすらなれない。そこでリンカーンは、遠くの町で開かれる講演会や演説を聴きに行っては、そのスピーカーの真似をして練習した。

●やがて「人民の、人民による、人民のための政治」という名文句で知られるゲティスバーグの演説に結びつき、リンカーンはスピーチ上手の一人になってゆく。
つまり、それが克服すべき口べたなら克服できるという話である。

●また、克服する必要がない口べたなら克服しなくても良いというお手本がパウロだろう。新約聖書の著者の一人であり、キリスト教大発展の礎を作った人で、「サウロ」や「パウエル」とも呼ばれている。

●聖書によれば、パウロはひどい話し下手だったようで、退屈すぎて人が死んでいる。それは、聖書・使徒20:9にこんな一文があるのを見てもわかる。

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ユテコというひとりの青年が窓のところに腰を掛けていたが、ひどく眠けがさし、パウロの話が長く続くので、とうとう眠り込んでしまって、三階から下に落ちた。抱き起こしてみると、もう死んでいた。
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●スピーチをやめて降りていき、彼を抱き起こしたパウロによって青年は幸いにも生き返るが、それにしてもあのパウロが人を死なせるほど話し下手だったとはある意味、ホッとする。

●パウロ自身もそれをかなり自覚していたようで、コリント210:10の中でこう述懐している。

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彼らは言います。「パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない」
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●パウロに向かって聴衆は、「彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない」という評価を下したわけだが、いったい聞き手は弁士に何を期待しているのだろうか?講演やスピーチはエンタテイメントではない。

●先日の上海和僑会で司会者は私にこう言った。

「それでは武沢信行先生、元気が出る力強いご講演をお願いします!」

そんな紹介は間違っていると言いたかったが、学生ボランティアなので黙って壇上にのぼるしかなかった。

●聴き手は、「力強く、立派な話」を期待しているのだろうが、パウロに言わせればそんな期待は間違っている、という事になる。

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離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです。私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。それは知恵のないことなのです。誇る者は主にあって誇りなさい。自分で自分を推薦する人でなく、主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。(コリント210:11~18より抜粋)
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●パウロがコリントの人々に言いたかったことは、話し方ではなく行いを見てほしい、実績を見てほしいということだろう。
行いと実績が誇れない者は、弁舌でそれを糊塗しようとするので注意が必要だと警告しているようでもある。

●有能な弁士は、自分のスピーチに酔いがちだ。あたかも自分はスピーチの内容をすべて実践していて、充分な実績を上げているかのように錯覚してしまうのだ。もしそんなことになるくらいなら、スピーチは引き受けるべきではない。自らの行いを正し、実績を上げることに専念しよう。

人の話を聞くときは、その人の行いと実績に注目して聞くようにしよう。