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凡人が勝つ

その日、私は講演していた。「最後に笑うのは凡人なんだ。だからエリートじゃないことを卑下してはいけない。勝つのは凡人の方だ。なぜならば・・」と、禅の大師、鈴木大拙氏の教えを引用しつつ、熱く語っていた。ところが・・・

現役の京都大学学生のA君が講演終了後に、名刺交換にやってきた。そして挨拶を終えるや否や反論を展開しはじめた。会場は、大阪毎日新聞ビル。ちまたでは、クリスマスソング流れはじめている。A君の反論はこうだ。

・たしかに凡人でも勝てるという話は勇気がでた。
・だが、凡人がエリートより勝っているというのは根拠なし。
・凡人が勝つのではなく、凡人でも勝てる、というのが正しい表現ではないか。
・エリートが凡人より劣っているなどとは思えない。にも関わらず、武沢さんの話からは、凡人のほうが優れているように受け取れた。

というのがA君の率直な疑問と意見だった。

だが、私の意見はあくまで“凡人でも勝つ”ではなく、“凡人が勝つ”なのだ。

A君は誠実だった。私も誠実に答えようとしたが、明快な合意点がないまま、「またいつか京都で会おうよ」とお茶をにごし、40日が過ぎた。ひょっとしたら見解の相違として合意など必要ないのかもしれない。だが、

正月休みにエジソンの伝記を読んだ。ひょっとしたら、エジソンの幼少時代のなかに凡人とエリートの論争へのメッセージがあるような気がする。

「天才とは、99パーセントの努力と1パーセントのひらめきです」という言葉で有名なエジソンだが、彼の母親の存在を抜きにして天才・エジソンはあり得ないのだ。

発明王「トーマス・エジソン」の母親はナンシーという。

のちに天才と称されたエジソンだが、実は幼少期にはADHD(注意欠陥・多動性障害)であったという。まともに読書もできないほどの注意欠陥だったのだ。それだけではない。異常なまでに好奇心と疑問心の強いエジソンは、周囲に対して「なぜ~なの?」と大人たちを悩ませる質問ばかりを発していたそうだ。

小学校の教師は、「頭が腐っている」とエジソンを評している。なぜなら、エジソン少年は「1+1=2」に対して異議を唱えるのだ。

・1杯の水にもう1杯の水を足しても、やっぱり1杯ではないか
・1個の粘土にもう1個の粘土を加えても、やっぱり1個になるではないか

一事が万事、こんな調子では学校の先生が困るのも無理はない。

さらにエジソンは、父親のサムからも見放されている。製材所を営んでいたサムの倉庫を燃やしてしまったからだ。その理由がふるっている。

火とは何か、なぜ炎が燃え立つのか、を自分で確かめたかったからだというのだ。その他にも、ニワトリの卵を自分で温めてヒナをかえそうとしたりして、とうとう実父も見放した。当然、学校も彼を見放し事実、小学校を退学している。

だが母は見捨てなかった。いや、母・ナンシーだけがエジソンの真の可能性を見抜いていた。そこでナンシーは、自らエジソン少年を教育しようと決心する。他人が見れば単なる問題児なのだろうが、真理や真実を知ろうとする好奇心・探求心のすごさを母・ナンシーだけが評価していたのだ。

国語、算数、歴史、文学、物理、化学、とナンシーが教えていく。とりわけ科学の才能を見抜いたナンシーは、自宅地下室を彼専用の実験室として与え、好きなように実験できる環境を整えてもいる。

そして、天才・エジソンは、その自宅地下の実験室から誕生したと言っても過言ではない。
「なぜ~なの?」と湧き出る疑問の数々に対して、自らがその回答を実験と研究を通して見つけ出していく。実験室のかたすみにあるベッドでほんのわずか仮眠し、また実験をくり返す。食事するのも実験室だ。それほどまでに、大好きな科学の実験と研究に没頭できたからこそ、発明の天才が生まれたと言ってよかろう。

私たちは他人を評価するとき、何をもって優秀か否かをいうのだろうか?
エリートと凡人の違いって何だろうか、を考えてみる必要がある。

世間一般で用いるエリートとは、高い学歴、豊富な知識、数々の資格を保有し、著名な企業で、高い役職を経験しているバイリンガルの人をエリートと称することが多い。つまり、何をやらせても人並み以上に上手にやれる人がエリートだ。そんなエリートになれるものならなってみたいし、あこがれもある。

私が凡人がエリートに勝つ、と言っているそのエリートも同じ意味で使っている。だが、高学歴、豊富な知識をもち、あまり他人に負けたことがないようなエリートでは立派な会社経営はできない、という自説は曲げない。いや会社経営だけではない。何かの専門家や芸術家になるのでも同様だ。

あくまで勝つのは凡人だ。人よりもはるかに劣る弱点をもち、失敗と挫折を経験しているエジソンのような凡人が勝つのだ。そのためには、自分が没頭でき、得意な何か一点に集中する必要がある。そんな凡人だけが、偉大な仕事ができるのだ。