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売ればわかる

●最近、仕事がうまくいかないN君(34才)は毎朝、万年筆で日記をつけるのが習慣になっている。
彼の仕事は教材の歩合制営業マン。売れなければ収入はまったくないのだが、大口の商品がドーンと売れたときの報酬はでかいのでやめられない。

●N君の年収は1,500万近くある。
この仕事を初めて3年経つが毎年収入は増えている。
だが、生活費の水準は収入の伸び以上に大きいので、税金や社会保険を含む毎月の必要収入は150万円にもなっている。だから、今の年収でも全然足りないのだ。

●膨れあがる損益分岐点。戻せない生活水準。困ったN君。

「生活のためにもこの教材を買ってほしい」と彼の顔に書いてあるせいか、最近は会う人会う人に断られるようになった。初めて経験する大スランプである。

●やがて完全に自信をなくしたN君は人に会うのが恐くなり、アポイントさえ入れなくなっていく。

毎月はじめには、「今月こそ」と思うのだが、月の中旬を過ぎてくると早くも負け戦の気分におそわれるようだ。そんな自分が情けなくて、毎朝日記帳にむかって「オレはできる。こんなところで立ち止まっている自分ではない!」などと自分を励ましているらしい。

●そんなN君の転機になったのは、一本の映画(ビデオ)だった。
彼が所属する代理店の社長が、「みんなでビデオ映画の放映会をやるから集まれ」と招集がかかった。

●「なんでみんな揃ってみる必要があるんだろう」と不満に思いながらもオフィスへいってみたら、すでにN君以外の全員が揃っていた。
さっそく映画が始まった。

そして、N君はこの映画の主人公・大作少年と自分とが重なっていくのを感じていた。

●映画は『てんびんの詩』という。てんびんのうた、と読む。
あらすじはこうだ。

・・・
世界的にも有名な経営者・近藤大作は、あるときテレビ局の取材で自分の少年時代を語った。

近江商人の家に生まれた彼は小学校を卒業した日に父から呼ばれ、祝いの言葉と共に鍋ぶたの包みをもらう。
「明日からこの鍋ぶたを行商しなさい。もし売れなかったら近藤家の跡継ぎにはできない」と言われた。

大作少年は鍋ぶたを売ることくらい簡単なことだと思った。そして、まっ先に家に出入りをする大工や植木屋のところを訪ねた。何しろこちらは旦那さんのせがれだ。冷たくあしらうはずがないと、子供でも想像できた。そこで親の威光をかさにきた販売を試みたがまったくダメだった。初めのうちは丁重にあつかわれたが、鍋ぶたの行商だとわかると彼らは態度を急変させたのだ。親に恩義があるとはいえ、要らないものを買う余裕は彼らもなかったのだ。
それに彼らだって大人だ。これは大作少年の行商修行だとわかり、尚更少年に厳しくした。

困った大作は、見知らぬ人の家を回ってみることにした。だが、そこではほとんど口さえ聞いてもらえない。やむなく薬売りの行商人を見習ってみたり、土下座営業したり、物乞い娘の真似をして農家の老夫婦を泣き落とししようとしたりするが、ことごとく魂胆を見破られ、反感を買って追い出される始末。

やがて大作は親を恨み、買わない人々を憎むようになる。

そんな大作の様子を茶断ちしながら、じっとかげで見守る父や母。子供の修行を見守る親の辛さはいかばかりか。

だが何日経っても一つも売れない。万策尽きた大作の目にはいつしか涙がたまっていた。

そんなある日、大作は農家の井戸の洗い場に鍋ぶたを見つけた。最初は何げなく見つめていた鍋ぶただったが、ふと良からぬことを思いつく。「この鍋蓋がなくなったら、持ち主は困って自分のものを買ってくれるかもしれない・・・」

だが、すぐにそんな考えを改めた。
この鍋ぶただって、自分のように苦労して誰かが売った品物だと思うと、つぎの瞬間、無心になって井戸端にあった鍋や鍋ぶたを洗い始める大作。
持ち主である農家の婦人が近づいて怪訝な表情でその様子を見ていたが、やがて大作に問う。
「あんた、何でうちの鍋 洗ろうたりしてる?お前、どこのもん?」

勝手に洗っていたことを真剣に詫びる大作。婦人は事情を聞き、大作が我が子と同じ13才と知っていたく共感する。そして、「鍋ぶたを売ってくれ」という。
それどころか、婦人は近所の人たちにも声をかけてくれた。そのおかげで大作の鍋ぶたは次々に売れて、ついに売り切れてしまった。

その信じられない出来事から彼は、「売る者と買う者の心が通わなければ物は売れない」と知る。
「売ればわかる」と言っていた父の教えはこのことだったのか。

大作は、父もそうしたように、てんびん捧に“大正13年6月某日”と鍋ぶたの売れた日付を書き込み、父や母の待つ家へと帰っていった。

それが、世界的大経営者・近藤大作誕生の日である。
・・・

●この映画を観おわったとき、N君は「説教クサイ映画だな」と思った。彼以外のほとんどの人が泣いていたが、彼は泣けなかった。
泣く余裕がないほど彼は自分に困っていたというべきか。だが、社長にお願いして一週間後、自宅で一人になってもう一度その映画を観た。
そのとき、初めてN君のほほに一筋の涙がつたった。

あれから21年たち、N君は55才になっている。また大商人にはなっていないようだが、その映画をもう一度観たいと思っている。