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世間とのつきあい方

●「世間のうわさや評判などは、無責任なので気にするな」と言われても、そうしたものからまったく無関係に生きられるものではない。

Twitterをやっていても一番気になる情報は自分自身に関するものである。自分がかつてつぶやいたことに対して、他の人がどう反応してくれたかが気になる。
まったく何も反応がないと拍子抜けしたり、時には疎外感を感じたりするから不思議だ。
その反応がポジティブなものならうれしいが、仮にネガティブなものだったらガクンと落ち込む。これは、現実の人間関係と同じである。

●フォローする・されるといったことから始まって、返信やRetweetがある・ないということを気にする。
本来は気軽なツールなんだから、そんな煩わしいことから超越できればもっとTwitterも楽しいのだが、なかなか超越できない。
いや、煩わしさから超越できないからTwitterも人間関係も奥が深いと考えるべきか。

●ある人のつぶやきにこんなのがあった。

「twitterほど拘束度の低いサービスでさえ摩擦が苦しすぎるという人は、もう、どこのインターネットコミュニティに参加しても同じような憂き目に遭うしかないのでは?」

なるほどと思う意見だが、私は、Twitterはかなり摩擦が多くて苦しく感じる人がいるはずだと思う。それがコミュニティの特性だ。あとは、こちらが上手なつきあい方の術をもつしかない。

●話を転じるが、私は生まれてから中学校を卒業するまでの15年間ほどは、優等生で通してきた。
いわゆる「良い子」で品行方正・学業優秀で親にとって自慢の息子だったはずだ。
親(特に母)に喜ばれることが私の目標であり、親を悲しませるなど決してあってはならないことだった。
というより、単純に母に叱られるのが恐かったせいでもある。

●そんな私が高校で落ちこぼれ、部活もやめた高二の後半になると、学業以外でも親の期待をあっさり裏切るようになった。

友人が多かった母の耳に、私に関する良からぬ風評が入るようになる。

・「おたくのご長男が大垣駅の前を一人で歩いてるのを見ましたよ」
・「昨日、本屋で信行君が成人雑誌を立ち読みしているのを見た」
・「学校で友だちとなぐりあいのケンカをしたらしいね」
・・・etc.

●地方都市に住んでいると、そうした風評がすぐに広がる。ほとんどそれらは事実なので、言い訳ができない。
徐々に町全体から監視されているような気分になっていった。
やがて20才になって就職してからは、一度も地元に帰って住みたいと思ったことはない。

●大垣を離れてからは愛知県へ出た。
大府、知立、岡崎、名古屋と移り住んだ。そしてそれらの町ではなるべく近所づきあいをしないようにした。無意識にその地を第二の大垣にしたくないと思っていたからだ。
そんな人づきあいの悪い私にとっては名古屋や東京のような大都市の距離を置いた人間関係のほうが性に合っていた。

●この夏休み、曽野綾子著『「いい人」をやめると楽になる』(祥伝社黄金文庫)を読んだ。
そして今までそのように思って生きてきたことが、一部間違いだったかもしれないと思うようになった。
この文庫本は曽野綾子が今までに書いてきたものの中から人生の生き方や人間関係についてのものだけを編さんしたもの。

●私は大垣という小さな町が悪いんだと55年間思いつづけてきたが、そうではないらしい。
たまたま大垣に住んでいた期間、私は「いい人」でいたいと思って生きてきたから、それに疲れただけのこと。
そんな生き方をやめさえすれば、どこでもノビノビと生きていける。

●次のようなことを曽野は書いている。抜粋引用してみたい。

・・・
ある時婦人雑誌を読んでいたら、おもしろい投書にぶつかった。投稿者は匿名希望の30才女性。

「私が住んでいる住宅に先日、二組引っ越してこられたのですが、若い夫婦のほうはきちんと物をもって挨拶にこられた。それにひきかえ、50代のもう一組のほうは入居して一ヶ月にもなるのに挨拶も来られず、いまだに名前もわからないありさま。それに飼ってはならない動物を飼っていたりと、とても迷惑しています。・・・」

この方の隣人は、常識から判断すればたぶん非常識なのであろう。
人間は誰ひとりとしてまったく単独で生きることはできないので、引っ越した先々で仲よくするほうがいいに決まっているから、この非常識な隣人は人から好かれない人かもしれない。

しかし、だからといってすべての人がかならずしも常識的に生きなければならないということもない。
(後略)
・・・

<あしたに続く>