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PHP訪問記

●いつ誰が命名したのかははっきりしないが、昭和33年頃に人は松下幸之助のことを「商売の神様」と呼ぶようになり、昭和37年頃になると今度は「経営の神様」との呼び名が広まり、いつしかそれが定着した。

松下氏自身もそう呼ばれることに対して「もう慣れました」と笑っている映像をみるかぎり、「経営の神様」と呼ばれることを本人は拒否していなかったようだ。

●そんな松下幸之助も負債10億円(今の100億円ほど)を背負い込み、マスコミから「税金滞納王」と報道されていた時期がある。
経営危機だ。この出来事はあまり知られていないようだが、PHP総合研究所の公式サイトに堂々と載っている。
http://research.php.co.jp/matsushita/history/history3.php

●「税金滞納王」と呼ばれたのは「商売の神様」になる9年前の昭和24年のこと。時は、戦後インフレの好況が終わり、安定不況に突入したころである。
その年の年頭方針発表会で幸之助は、社員に強く経営危機を訴え、企業再建合理化のため、はじめて希望退職者を募ったりした。

●氏にもそんな時期もあったとは知らなかった。
神様も人の子だったのかと安心する出来ごとである。はたしてその時、松下幸之助は社員の前で何をどのように語ったかが大変興味深いのだが、実はそのときの音声とテープ起こし原稿が残っている。

●それだけではない。
昭和初期のころから、つまり有名な「命知元年」の経営方針発表会のころからの記録がすべてある。
幸之助が社内外で語った音声テープや動画テープ3,000本とそれらの文字原稿が京都PHP研究所の耐震・耐火構造の書庫に厳重保管されているのだ。

●昭和21年11月3日、51才になっていた幸之助はPHP研究所を創設し、初代所長に就任した。

「PHP」とは、“Peace and Happiness through Prosperity”の頭文字をとったもので、“繁栄によって平和と幸福を”という意味である。
物心ともに豊かな真の繁栄を実現していくことによって、人々の上に真の平和と幸福をもたらそうという願いを表したものだという。

●翌・昭和22年、月刊誌『PHP』を創刊。

1冊120円の『PHP』を書店は扱いたがらなかったせいもあり、幸之助の人脈をたどっての訪問販売スタイルで部数を伸ばしていった。

幸之助は「一家に一冊PHP!」と営業部隊に檄をとばした。
同時に、「お布施や寄付でやってはいかん」と営業部隊の直販で経費をまかなうよう、つよく要求した。

●「きつかった」、と当時の営業幹部が語るように、一冊のPHPを売るために、鹿児島や沖縄まで営業に出かけたこともある。
そんな販売努力が実り、昭和55年には月間150万部を突破。そのうち、100万部が直販でのセールスだったというから、いかにPHPの営業部隊が強かったかがうかがい知れよう。

●今でこそ、PHP研究所のことを「出版社」だと思って応募してくる学生が多いそうだが、原点は「良い社会を作りたい」と願う株式会社の啓蒙団体であり、その表現スタイルが一冊の雑誌出版とその直販である。
今でも自社を出版社だと定義していないのか、作者からの持ち込み原稿や企画書は一切お断りである。
→ http://www.php.co.jp/staff/info.php

●先週金曜日、7人の経営者とPHP研究所を訪問し、清水取締役や佐藤取締役からお話しをうかがいながら、貴重な幸之助翁ゆかりの部屋や根源の社などをご案内いただいた。

●参加されたのは、東京から3名、愛知1名、大阪1名、兵庫2名、私を含めて総勢8名。

当日ご参加いただいた株式会社ニューズ・ツー・ユーの神原弥奈子社長のブログの原稿より、当日の空気をお伝えしたいと思う。

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「がんばれ社長」の武沢さんの企画で、京都にあるPHP研究所訪問の会に参加させていただきました。
生前の松下氏に直接指導いただいていた清水取締役、また、「松下幸之助 成功への軌跡」などの著書も多い佐藤取締役のご案内。
本社ビル8Fに、松下氏が直接指導したお部屋の移し、茶室、そして、「根源の社」はありました。
また、昭和30年代からの松下氏の講演記録のテープ、それらを書き起こした講演録をはじめ、掲載誌、対談誌などをしまっている書庫も見学させていただきました。

これを見て、PHP研究所の一人一人の方々が、どれだけ創業者を心から尊敬し、その志を1人でも多くの人に届けようとしているのかという思いを感じました。
と当時に、これらの膨大な記録は松下氏自身によって、記録するように指示されていたということを聞き、創業者がこれだけ意識して、自分の思いを残そうとしたというのはどういうことなのだろうかと考えました。
健康に恵まれず、体が弱かった松下氏。
健康不安を抱えていた松下氏は、自分がいなくなったときのことを常に考え、創業者の思い、経営への思い、そして社会や国への思いを正しく伝えたいと考えていたのではないのでしょうか。

「商売の神様」「経営の神様」といわれる松下幸之助氏が50歳のときに設立したPHP研究所。50歳を過ぎたら、経営の現場から離れて、人間について、社会について考えるという松下氏の思いでスタートしたそうです。そして21世紀を20年後に控えたときに松下政経塾をスタートした松下氏。
松下氏の著作は数冊しか読んでいませんが、今日の訪問で、経営者としてだけでなく、松下幸之助という人の生き方、考え方について強い興味を持ちました。
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★神原弥奈子社長の「minako’s blog」
http://blog.news2u.co.jp/archives/2009/05/15_002419.html#more

●「松下幸之助さんの血液型は何型だったのでしょうか?」

懇親会の席でどなたかがそう質問した。その時は誰も分からなかったが、お調べいただいた結果、「A型」だと判明した。
これから私も血液型を聞かれたら、「松下幸之助さんと同じA型」と答えるようにしよう。

当日の画像 → http://www.flickr.com/photos/takezawa/