先週末の土曜日は「鎌倉歴史非凡会」。
歴史家の山本詔一先生(開国史研究会会長)にガイドをお願いし、古都鎌倉を江ノ電と徒歩で旅した。
鎌倉文学館、鎌倉幕府跡、頼朝の墓、若宮八幡社などを巡った我々一行。小町通りでの懇親会を20時に閉会したときには、出席者17名それぞれが、なごり惜しさを胸に家路についた。
翌日の日曜日は「鎌倉まつり」のメインイベント流鏑馬(やぶさめ)を見物した。
想像を超える馬の疾走スピード、興奮する馬を操りながら矢を引き抜き、三箇所の的に弓矢を放つ乗り手。馬が蹴上げる砂をかぶりそうな位置で見物する観客と、フラッシュ禁止を叫び続ける警官。
間近でこれをみたが、まさしく圧巻!
戦国武者がそこに居るようで、多数の外国人観光客も喝采を送っていた。
昔、これを見た映画監督・黒澤明が、自分の映画に流鏑馬の乗り手を使ったのもうなづける。
古都鎌倉にどっぷりと浸りきる二日間。
「鎌倉はいいなぁ」と思う。いい、と感じるいろんなものが揃っているようだ。鳩サブレも鎌倉ハムも鎌倉彫もいいし、新緑も古寺もみんないい。
「鎌倉はいいね ここで永住してもいいと だんだん思いだした」
と親友・恒藤恭への手紙に書いた26才の芥川龍之介。
芥川は恒藤を最大限の言葉で激賞している。
「一高生活の記憶はすべて消滅しても、君と一緒にゐた事を忘却することは決してないだらうと思ふ」
だが、ここではそれは余談。
もし龍之介の手紙にご興味ある方は山梨県立文学館に行ってみよう。↓
http://www.bungakukan.pref.yamanashi.jp/collection/collection.html
鎌倉にあこがれた龍之介は、27才で文(ふみ)と結婚し、鎌倉で借家生活を始めた。
そして、横須賀の海軍機関学校で英語学の嘱託教師をしながら小説を書いた。
新婚生活のたった一年で、「蜘蛛の糸」「地獄変」「枯野抄」「鼻」「蜜柑」など、日本文学界に名を残す作品群をノリノリの勢いで書いた。公私ともに龍之介がもっとも充実していたころだろう。
この当時、すでに鎌倉は人気のスポットだった。
明治22年に開通した横須賀線のおかげで鎌倉は保養地として人気を博し、多くの文人墨客がここを訪れ、住み着いていたのだ。
そうした「鎌倉文士」たちとの交流も当時の龍之介の毎日に彩りを添えた。久米正雄、小島政二郎、里見とん、菊池寛などとの交流を深めている。
結婚翌年、28才になった芥川は海軍機関学校に退職届を出した。
すでに大正文壇のスターに登り詰めていた彼は、いよいよ職業作家として一本立ちする。
そして、「こんな所にいたら時代におくれる」と東京へふたたび移り住む決心をする。妻の文(ふみ)は、「鎌倉にもっといたかったのですが・・」と後に語っている。
龍之介が文壇のスターとして華やかな毎日を送るには、鎌倉は不便だったのだろうか。
だが後になって健康状態が悪化。将来を不安視した龍之介は35才で服毒自殺する。その前年、文(ふみ)にポツリと語った龍之介。
「鎌倉を引き上げたのは一生の誤りであった」
あれから81年。
鎌倉歴史非凡会で「鎌倉文学館」を訪れた我々一行。売店で何げなく手にした『芥川龍之介の鎌倉物語』。
再び芥川を読もうと思う。
鎌倉文学館 http://www.kamakurabungaku.com/