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別れの春

「仰げば尊し 我が師の恩・・・」。
街のあちらこちらで卒業生の姿を見かけるようになった。

春といえば別れの季節。
個人的なことながら、別れの春にまたひとつ、別れの思い出が加わることになった。

経営コンサルタントとして開業して3年目、まだヨチヨチ歩きの私にコンサル依頼をして下さり、今日に至るまで12年間もの間、顧問を任せていただいた株式会社田村設計さんとの契約が先週で終了した。

12年前、田村設計さんと最初は6ヶ月限定のお試し契約を交わした。
依頼内容は「経営計画作り」だった。

その後、経営会議にオブザーバー出席させていただくようになり、やがて一年契約になり、その後は自動延長を繰り返してついに「干支一巡」したことになる。

田村和雄社長(48才~60才)、武沢信行(42才~54才)と互いの働き盛りをぶつけあったわけで、とてもありがたい経験をした。

「断腸の思いだが休学する。これは、武沢学校の卒業ではなく途中休学。デキのわるい生徒で申し訳ない。再入学できるまで独力で勉強する」とは田村社長の弁。

“卒業”ではなく”休学”という言葉を用い、再入学をも匂わせる田村社長の気配りには頭が下がる思いがする。

なにしろ12年間もの永きにわたって隔週土曜日の経営会議に参加し続け、高額な顧問料をお支払いいただいてきたという事実に今更ながらびっくりするばかりだ。

8年前にメルマガを創刊したとき、すぐに購読登録していただいた。
創刊10日めに1000人乗せしたとき、祝いの席を設けてくれた。そして、「武沢さんのメルマガは一万人までは堅いね」とねぎらってもくれた。
自信がなかったので、励みになった。

その当時、「武沢さんはネットで何をやりたいの?」とよく質問された。
「行き先が分からない」と言うことらしい。実は私も分からなかったので、「とりあえず、ネット経由の売上げができるようにしたい。まず、50万円もネット経由での売上げができれば最高ですね」と答えたのが昨日のようだ。

コンサルタントとして未熟で、偏屈で、スキルにも乏しい私を養い、育て、ずっと我慢して見守っていただいた田村社長のおかげで、この仕事が続けられてきたと思う。

人生の師だとも思う。

幸運なことに、同社がパチンコ設計に特化し、急成長を遂げていかれる渦中に遭遇できたことは経営を学ぶうえで大きな財産になった。

もうひとつ幸運なことは、田村社長は喜怒哀楽が激しいこと。感情の起伏をほとんど隠さず表に出す。だから今何に困っているか、何が問題か、何が嬉しいか、いつもすぐに分かった。

危機は何度も何度も何度もあった。

8年ほど前には、大晦日を四日後に控え、資金繰りの苦悩を抱えながら、私とたった二人で忘年会をしたこともある。乾杯の酒は苦かった。

だがこの苦い酒が次の年、新しい収益部門を生むきっかけとなった。

辛い話題のミーティングがあっても、最後にはカラオケ熱唱と大爆笑でお開きとなった。剛胆なのだ。
あるいは、剛胆を装いつづけた12年だったのかも知れないが、悶々とする田村社長を一度もみたことがない。

こうして、私は経営者の人間学を学んでいたのかもしれない。
ある意味、大変社長らしい社長だった。

絶好調の時には、ポケットマネーで多額の臨時ボーナスをいただいたり、勝手に顧問料を値上げして送金したりと、私にいつもサプライズを提供していただいた。

別れの春は希望の春でもある。

田村設計は、13年ぶりに武沢不在の経営会議を開催する。重しがとれて溌剌と議論し、伸び伸びと田村流経営で今後も発展されることだろう。経営とはかくあるべし、と語らせたら1時間でも止まらない社長なのだ。実行力もある。

私も田村設計との別れは、旧ビジネス(地域密着・定期訪問型コンサルティングビジネス)の完全終焉でもある。

社内的に「売上1」と称している直接コンサルティング収入はこれでゼロになった。それ以外の仕事は全部ネットが主戦場なのだ。

別れの次の日、メルマガ読者が3万人乗せした。

こうして田村社長との契約は満了したが、これからもマークしていきたい社長だと思っている。

事実、今年5月には田村社長と私の雑誌対談も決まっている。その雑誌が発売になるころ、またご紹介できるのではないだろうか。

株式会社田村設計 http://www.tamra-ar.com/
田村社長のブログ http://www.tamra-ar.com/blog/2007tamra/

互いに称えながらお別れできる相手って、それだけで素晴らしい。

ありがとうございました。