司馬遼太郎さんは座談の名手だが講演は苦手だったという。
講演の「一対他」という形式が性に合わないのだろう。私も「一対他」の講演は苦手だし、もうひとつの座談のほうも得意とはいえない。
ところで、座談と講演の違いは何だろうか。
聞き手の人数の多寡や、講師と聴衆との距離、双方向性の有無などの違いもあるが、そうした形式的なことよりも私は、話し手の置かれた立場が決定的に違うのだと思う。
講演の場合、座談とちがって講師の話に起承転結がなければならない。
一方、座談は聞き手が質問してくれるし、自分の意見や感想も言ってくれるのでそれを元に自分の考えを発展修正していくことができる。
したがって座談には、話し手に起承転結が必要とはかぎらないのだ。
私は講演や座談は得意と言えないが、研修は得意だ。
先日長野での社長講座で、受講者のひとりから、「武沢さんの話は無駄がない」と言われた。
「無駄がない?それって私は喜んでいいのかな」
「もちろんです。講師の話に無駄が多いと、僕の場合はノートに落書きを始め、次いで眠りますから。それが今日はゼロでした」
たしかに、自分でもひとたび話し始めると脳が活性化するのが分かる。普段とはまるで違った脳の活動を始めるのだ。
それは、自分で話をしながら自分の声を録音していくような感じだ。
録音したものを同時再生しながら、OCRで文字変換したり、音楽プレイヤーで再生し後頭部にある別の耳でチェックしているのだ。
頭脳で文字変換するときは、文法や句読点に配慮したり、漢字やカタカナが続きすぎないようにも注意する。
同じような言い回しが続いてしまって、それが口ぐせとならないようにも気をつける。
音楽として我がスピーチを聴くときには、テンポや抑揚に気が回っている。
聴衆にむかって話しをしながら、以上のことを同時にやっているのだ。
今月のように、山形→名古屋→長野→山形というように同一テーマでの講義が続く場合には、話の完成度がその都度上がっていくのが自分でも分かる。
書くように語る。
もちろん日常会話ではそんなことは意識しない。ただ話すだけだ。
それがひとたび人前に立って仕事として話そうとすると、まったく別のモードに切り替わるというわけだ。
作家が何度も何度も推敲した文章は、話の大家によって語られた話術と同じで理解しやすいし、イメージもしやすい。
その逆に、推敲されていない文章を読むと、下手な話を聞かされているように苦痛をともなう。
かの『平家物語』も、もともとは琵琶法師たちによって語り継がれてきたものだという。
くりかえしくりかえし語られていくうちに、文章としても練り上げられていき、あの複雑なあらすじが平易に理解できるような文章に完成し、やがて文学となった。
あなたの理念や目標や計画だって文学レベルまでに高めてあげよう。
練って練って練り上げるためには、人に話さねばならない。
一人で書斎にこもって作りあげた方針書はまだまだ未完成だと考え、友人や部下に何度も何度も話すという行為を経てから完成していくものだと考えよう。
職業経験がない中学生・高校生でもスラスラと理解してくれるようなこなれた文章になるまで、我が理念、我がビジョンを語って語って語りまくろう。