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諫言(かんげん)とは

「はばかりながら」と古参の専務が口を開いた。就任して間もない新社長の考えに異論があるという。

「またか」と思う社長だが、経験や年令、実績などあらゆる点で若社長より勝る専務の意見がいつも経営会議において採択される。

焼酎を飲みながらそんなグチを語る若社長に私は、「よく我慢しておられますね」と誘い水を向けた。すると、こんな答えが返ってきた。

「武沢さん、イエスマンの経営陣では役に立ちません。むしろ専務のような方が私の部下でいてくれることをむしろ心強く思っています」

だったらなぜグチるのだろう?本音はちがうのではないか?

そこで私は先読みしてこう申し上げた。

「私心ある部下を重用してはなりません。私心ある部下の態度は一貫して “上司より自分が正しい” と思っているものです。そして、上司が間違っていると思うと、水を得た魚のようにその批判を公の場で行うものです」

するとこの若社長、言い返してきた。

「武沢さんの言わんとすることは分かりますが、良薬口に苦しというように部下の諫言(かんげん)は自分にとって痛いものです。でも、指摘されて気づくことが多いので、今のところ専務の実力を認めざるを得ないのです」

ここまでいくとこの若社長、人柄が謙虚というだけではなくて、社長として甘えすぎだ。さっさと専務に社長の座を譲るべきだ。一番力がある人が社長をやった方が良いのだし、社員としては誰の話を聞くべきか判断に困る。

専務に対し、自分が社長である。あなた(専務)の仕事は私をサポートすることであって、私より自分が優れていることを証明することではない、と念押してもらいたいものだ。

佐賀・鍋島家の「葉隠」にこんな一節がある。

「諫(かん)という詞(ことば)、はや私なり。諫はなきものなり」

諌言(かんげん)、つまり目上の人の非を説いていさめる行為に私心があってはならない。私心があっては諫言と言わない。
それだけでなく葉隠の作者は、諫(かん)、つまり、いさめるという言葉そのものがすでに私心から生まれているとまでいう。

織田信長が歴史の表舞台に登場する前、「うつけ」(阿呆)ぶりに手をやいたお傅役(もりやく)の平手政秀は、諫言を残して割腹自殺した。これなどは諫死(かんし)の代表的な例であり、後の信長に大きな影響を与えたとされる。

だが、「葉隠」流の解釈によれば、政秀の行為も私心ということに相成るのか。

有能な腹心は、面と向かって反論せずとも上司の意見を変えさせる。
しかもそれは、上司が腹心の態度に気づいて意見を変えるのではなく、自ら進んで別の意見にバージョンアップする、といった方が正しい。

諫言とはそのような心と態度で行うべきものであり、冒頭の専務のような私心ある態度は改めさせるべきだろう。