今、網走に来ている。知床が世界遺産に登録されたときから目標設定していた道東ひとり旅、今週金曜日の札幌非凡会に先立って今日は網走、明日は知床・摩周湖・阿寒湖と激しく回り、明後日、釧路空港から札幌入りする予定。
フライトと宿しか確保していないので、うまい具合に観光バスやタクシーが見つかればよいが・・・。
「旅」の話題は明日にして、今日は「詩」について考えてみたい。
私は物心ついたときから「唐詩」が好きだった。だれに買ってもらったのか、本棚にならぶ教科書の横に「唐詩選」があり、勉強の合間をぬって唐詩を味わう、そんな中学生だった。
国破れて山河在りとか、青雲の志、白髪三千丈、捲土重来、春眠暁を覚えず、などの言葉に出会ったのもこのころだ。
高校で漢文が授業になったころから、いつしか「唐詩」とは無縁になっていた。
四行詩の絶句と八行詩の律詩があり、他にも色々な制約や規則があるなかで人々の心を打つ詩が作れることは、唐の時代におけるエリートにとって誇るべき才であった。いや、エリートは詩が作れなくてはならなかったのだ。
作詩能力がエリートの条件だったのは、古代中国だけでなく近代中国や西洋でもそうであったし、日本でも明治まではその気風が色濃く残っていた。だが、作詩の才が私たちに問われなくなって久しい。
李白や杜甫が活躍したころの中国の「詩」なんて読んだってさっぱり分からない、と思っておられるとしたら偏見と誤解だろう。
そんな方のために、ビックリするような解説本が出ている。
『ビジネスマンが泣いた「唐詩」一〇〇選』(佐久 協著、祥伝社新書)という。
なにがビックリかというと、高校の先生だった著者の型破れな訳文にある。
たとえば、張九齢(ちょうきゅうれい)の「照鏡見白髪」という詩。
宿昔青雲の志(しゅくせき せいうんのこころざし)
蹉たたり白髪の年(さたたり はくはつのとし)
誰か知らん明鏡の裏(たれかしらん めいきょうのうち)
形影自ら相憐れまんとは(けいえい みずから あいあわれまんとは)
これを佐久流に訳すとこうなる。
立身出世を夢見たものの
窓際族で終わっちまった
おれの憤怒を知るものは
鏡の中のおればかり
このようにして佐久流にかかれば、杜甫も李白も現代によみがえる。
ちょっと意外だったのは、彼ら唐詩の名人たちの多くが出世競争に敗れ、放浪と酒にまみれた生涯を送っていること。
だからこそ伝わる悲哀の情なのかもしれない。
ビジネスマンが泣いた「唐詩」一〇〇選
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