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憑神

ふつうの貧乏神の他、ミニボンビー、キングボンビー、ハリケーンボンビーやブラックボンビーなど様々な種類の貧乏神があなたを悩ませるゲーム「桃太郎電鉄」シリーズ(略して「桃鉄」)。

ひとたびボンビーが憑いてしまうと、ただ、なすがままにされて堪え忍ぶか、あるいはボンビーを他人になすりつけるしかない。
そのあたりの駆け引きが楽しく、思わずアツくなるゲーム。

どうやらそうした貧乏神や福の神という「神」は、ゲームの世界だけに存在するものではないらしい。現実社会にもいる、と考えさせられる映画が今公開中の「憑神」(つきがみ)。

時は幕末。
主人公は、妻夫木聡演じる別所彦四郎。行きつけのそば屋の主人から、向島の「三囲稲荷」(みめぐりいなり)が霊験あらたかと聞いた彦四郎。
この窮乏生活から脱出できるのならと、明日にでも向島へ行って神頼みしようと考えた彦四郎だが、そば屋の帰路、尿意をもよおして原っぱへ行くと、そこで小さなほこらを発見する。

そのほこらには、なんと「三巡稲荷」(みめぐりいなり)と書いてある。

「三囲」と「三巡」。

「字は違うがおなじミメグリ。これはひょっとして分社?」と独り合点し、手を合わせたことから彦四郎に神が憑く。
しかもそれは幸運の女神ではなく、災いの神々。

最初に表れた西田敏行演じる貧乏神が言うには、彼の”商売”のあとには、疫病神と死神が手ぐすねひいて待っているというではないか。
お気の毒に。

そこから後が何ともユーモラスな展開が続くが、最後はさすが『壬生義士伝』の浅田次郎。彦四郎にこんなセリフを言わせる。

(死に神に向かって)
「人間に出来て神に出来ない事がある。それは志のために死ぬ事」

たしかに神は死ぬことができない。しかも誰かのため、何かのために死ぬなんてことは、人間にしかできないはずだ。

彦四郎は権現・家康公以来、代々の影武者。
戊辰戦争で水戸へ逃走してしまった徳川慶喜公になりかわって江戸に留まり、上野・寛永寺で徳川軍を鼓舞しつつ、大村益次郎率いる官軍の前に討ち死にすることを決意したのだ。

命の使い途をみつけて、彦四郎は寛永寺に向かう途中にそば屋に立ち寄る。馬上、あでやかな将軍姿に身を包んだ彦四郎が親爺に向かってこう語る。

・・・
「どうだ、親爺」

「てえしたもんだ。やっぱし俺の目は節穴じゃあなかった」

「なになに、要は三巡稲荷が出世稲荷であっただけだ。のう親爺。これほどの出世はござるまい」

「出世も出世。世の中をそっくり背負っちまうほどの出世だぜ、彦さん」

「かように出世したからには、親爺との約束を果たさねばならぬ。ほれ、出世払いの蕎麦代だ」

と彦四郎は親爺の胸元に、どさりと巾着を投げた。
・・・

(『憑神』(浅田次郎著、新潮文庫より)

誰だって貧乏神、疫病神、死神なんてイヤだ。福の神に憑いてほしいと考える。そう思うと、「三巡稲荷」は災難の稲荷なのか?

どうせ死から逃れられぬとあれば、犬死にはしたくない。活きた命の使い方を模索し、ついに見つける彦四郎。
こうなれば、死神なんて恐るるに足らずだ。むしろ死神に出会ったことで彼の予期せぬ出世が始まったわけだから、人生なんて考え方ひとつで死が生になり、生が死になるというわけだ。

よくできた話だった。

小説「憑神」 http://www.amazon.co.jp/dp/410101924X/
映画「憑神」 http://tsukigami.jp/index.html