「人の一生は重荷を負って遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。不自由を常と思へば不足なし。心に望みおこらば、困窮したるときを重ひ出すべし」など、徳川家康が残した家訓は、今の時代でも通用する智慧が多い。
江戸時代に起こった豪商たちも戦国武将の家訓を参考にしたものが多いようだ。
家訓とは、主人が子孫や使用人に書き残した教訓や遺言のことで、家系の存続と繁栄を願って作られたものである。
「藤堂高虎の200箇条」や「上杉謙信の16箇条」、「北条早雲の二十一箇条」などの家訓も有名だ。
「家訓」が親族にあてた教訓ならば、統治国を管理するときの憲法にあたる法律作りも必要だった。
たとえば、家康が諸大名や公家を統制するために作った「武家諸法度」「公家諸法度」。
築城の禁止や参勤交代制度など、この「諸法度」を厳密に管理運用したおかげで、徳川幕府は260年もの永きにわたって日本を統制できたと考えられる。
戦国武将がそれぞれ知行する国を「分国」と呼んでいた。
当然その分国を管理するための「分国法」が必要で、伊達氏の「塵芥集」や、今川氏の「今川仮名目録」、朝倉氏の「朝倉孝景条々」、長曽我部の「長曽我部元親百箇条」など多数の分国法が記録として残っている。
武田信玄が作った「甲州法度」(こうしゅうはっと)も有名だ。
NHK大河ドラマの『風林火山』では、父・信虎(仲代達矢)を追い出し、家督を継いだ息子・晴信(信玄)が、皮肉にも信虎化し始めている。
晴信のセリフ、「家督を譲るも譲らぬもこのわしの胸三寸じゃ」というセリフは、父信虎がせがれ晴信にはいたセリフと奇しくも一緒。
晴信の暴走を危惧する家臣たち。折から、「分国法」の草案を制定する大役が、若手家臣の駒井政武と春日源五郎に命じられた。
苦労のあげく、草案を提出する。
以下、『風林火山』の場面
・・・
晴信:(分国法の条文案を読み終わり、いたく満足げに)
「みごとじゃ。大儀であった」
駒井:「恐れながら、それにはまだ、一か条足りませぬ。その法度の末尾に、親方様みずから、お付け加えいただきとうございます」
晴信:(なんじゃ、という表情を浮かべる)
駒井:「一つ。晴信行儀に於て その外の法度以下に相違の事あらば貴賎を選ばず 目安を持って申すべし 時宜に依り その覚悟を成すべし」
(もし、主君晴信の行いといえども、この法度に違反しているのを目撃した者は、身分に関係なく目安箱に投書してよい。それだけの覚悟をもって、定める法なり)
駒井:「それでこそ、まこと正しき法度になると存じます」
晴信:「わし自らに守れと・・・」
しばし駒井をにらみ、絶句して後、
「その進言、あっぱれ!」
・・・
天文16年(1547年)6月、『甲州法度之次第』(略して「甲州法度」)成立の瞬間である。
戦国時代において、国主自らが守ると約束し、それを破れば自ら罰を受けると公約した分国法は極めてめずらしい。
「人は石垣 人は城」の武田家の真の強さは、この瞬間から始まったと私はみている。
すべての会社には就業規則や服務規程がある。
信玄の「甲州法度之次第」のように、活きたものになるべく、一条一条を命ある条文にしていこう。
そして、最後に社長直筆でこう付け加えよう。
「一.社長といえども、この規定に相違あらば所定の罰則を受くる。もし社長の規定違反を目撃した社員がいれば、ためらわず上司に進言すべし」