昭和39年の東京五輪を翌年に控え、東海道に新幹線や高速道路が急ピッチで造られつつあったあの頃、17才の少年が茨城から上京した。
少年の名は野澤司郎。
「手品師になりたい」と都内のマジックスクールで学び、20才にして晴れてプロのマジシャンになった。
今でこそ華やかな人気職種だが、当時 “奇術師”と言われたこの職業を目指す若者は全国でも珍しかった。
野澤少年は、子どものころ知恵の輪が大好きだった。
中耳炎を直すために毎日病院へ通わなくてはならないのに、こっそり一日置きにしてお金を貯め、ついに知恵の輪を買った。
だが、それが母親にみつかった。
クラスの中でも飛び抜けて貧しい家庭だったし、厳しい母なので、知恵の輪を取り上げられ、おもちゃ屋に返されるものと少年は思った。だが、このとき、母は何もいわなかった。
「もしあの時、母に知恵の輪を取り上げられていたら今の僕はなかったでしょうね。僕が真剣に好きなものを母は分かってくれたのだと思います」
上京5年目、22才のとき手品師 マギー信沢を師事した。みずからも芸名をマギー司郎に変えた。13年後輩の兄弟弟子にマギー瑠美がいる。
きちんとした仕事がなく、ストリップ小屋で一日4回も幕つなぎのマジックをやった。結局この幕つなぎの仕事は15年も続いた。
プロと名乗るマジシャンでも経済的に食べていける人などごく少数に過ぎない。司郎がストリップ小屋に立っていた頃から40年を経た今でも、サラリーマンと同じ生活レベルを保てているプロマジシャンは一割に満たないという。
「どうせ食べられないのなら、みんなと同じことをする必要はないよな。だったら、ちょっとチャレンジしてみようか」と今までの芸風を壊し始めたら生活の方も人並みになってきた。
いまでは「マギー一門」としてたくさんの弟子を抱えている。弟子のなかでも出世頭となったマギー審司(昭和48年 気仙沼生れ、平成6年マギー司郎を師事)も億単位で稼ぐ芸人に育ってくれた。
だが、師匠のマギー司郎が弟子の審司を高く評価しているのは、立派に稼げるようになったからではない。
今でも昔と変わらず、自分の荷物を自分で担いで持って歩いているから立派だ、とみているのだ。大切なのは人柄なのだ。
稼げるようになると急に周りに荷物を持たせるなどして、上からの目線になる。やがてそれが芸風に表れる。司郎はそれを嫌うのだ。
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そのマギー司郎が平成16年に出演したNHK『課外授業ようこそ先輩』が第31回日本賞教育番組国際コンクール最優秀番組東京都知事賞を受賞した。
マギー自身が、自分の手品の上手さを観客にアピールするのをやめて、自分の弱点(氏曰わく、手品のヘタさ)をさらけだすことでうまく行った。それを子供達に教えようというのだ。
番組の中でマギーは小学校の教室で子供達の前にたち、「ふだん内緒にしている自分の欠点をあえて表にだし、自分をさらけだしてから手品をやろう」と提案した。
子供達は最初、あきらかにとまどっていた。だが、時間をかけ、勇気をもって心を開いていく子供達。
「家と学校では態度が違うということ」「嫌なことがあるとすぐに人に八つ当たりをしてしまうということ」「実は勉強も運動も出来ないということ」「手先が不器用であるということ」
などなど、コンプレックスを告白する。
隠していた本当の自分をみんなの前で見せて、そしてマジックをする姿にはちょっとした感動すら覚えた。
そして全員が見事なワザを披露し終えたあとの、あのクラスの一体感。
最後にマギーが締める。
「辛い事、苦しい事がこれからあるだろう。だけど、今日、頑張ってやったマジックの成功感を忘れないで欲しい。このことを思い出して乗り越えて欲しい」と語りながら、マギー自身もこみあげてくるものをこらえていた。子供達も目頭をおさえていた。
この番組の再放送を昨年見て以来、私はマギー司郎のファンになった。
先日、船井総研さんの講演会におじゃました際、同社の小山社長が
「マギーさんはぼくが最近お目にかかった方のなかで、もっとも強い印象を受けた方です。それは僕が彼のファンだからではなく、氏のお話から伝わる、人としての奥深さからでしょう」
その小山社長とマギー司郎さんとの対談が本になって出るという。
詳細は未定だが、今からとても楽しみだ。