横綱朝青龍が初日二日目とよもやの連敗を喫し、窮地に立たされた。
そののち、連勝して星を五分に戻したが、もし三連敗していたら休場が濃厚だったと言われ、そうなれば、来場所は一気に引退をかけた土俵になっていたわけだ。
つい先場所、千秋楽を待たずに20回目の優勝をかざり、昭和の大横綱大鵬の32回優勝という記録を塗り替えるのは必至ではないかと言われていた朝青龍。彼の身に、こんなに早く引退の文字がちらつくとは。
さて、横綱にならってかどうか、経営者の中にも1期とか2期連続赤字で引退すると宣言している人を見かけることがあるが、それは、ちょっと早すぎないだろうかと思う。腹のくくり方としてはいさぎよいが、私は、決算書だけが経営者の価値だとは思わない。
横綱は名誉職のようなものだから不様な相撲をファンにみせるわけにはいかないという事情がある。
だが、経営者は名誉職ではない。現役の挑戦者だ。不様でも何でも挑み続けるところに値打ちがあるのであって、短期的な業績の良し悪しだけでに経営者の価値のすべてが決められるものではないと思うのだ。
人の値打ちという意味で、司馬遼太郎はおもしろいことを語っている。
司馬がかつて、乃木希典のことを小説に書こうとしたとき、没後50年しかたっていない乃木は、まだ “死体が温かな人物” で、途中で書くのをやめようと何度も思ったそうだ。
乃木にまつわる人がまだたくさん生きていて、彼らを取材すればするほど乃木の真実がわかりにくくなるというのだ。
人を知るための最善の方法は、その人に直接会うことではない。たとえ遠く離れていようが、死後、時間がずいぶん経過していようが、問題はない。むしろ、そのほうが相手のことをしっかり理解できるというのが司馬の考えだ。
たしかにナポレオンや西郷隆盛の奥さんは、彼らのことを誰よりもよく知っていたかというとそうではないだろう。
一緒に生活して、彼らの肉声や素顔、性癖や趣味嗜好などをよく知っていただろうが、それがすなわち本人を知るということではない。
さらに言うならば、ナポレオンも西郷も、本人だって死ぬまで自分の真の価値については、分からずじまいだったはずだと司馬は指摘している。
歴史小説のおもしろさは、本人の死後、最低100年を経ないと書けないことが書ける点にあると司馬。それが人の歴史的評価というものだ。
本人自身も人生が楽しく、歴史小説家も彼のことを書いていて好ましく、わかりやすい人物はどんな人かというと、テーマをもっていた人だという。
テーマとは、生きがいだ。生きがいをもって生きていた人が良いという。
生きがいを感じて生きる人とは、命の燃やし方をしっている人であり、自分自身の賭け時や賭け方を知っていた人だ。
経営者として、目先の勝利や利益も大切ではあるが、一生を貫くようなテーマを持つことがそれに優先されるのは言うまでもない。