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続・葛飾北斎考

きのうの続き。

葛飾北斎、数え年19歳の頃、人気浮世絵師・勝川春章のもとに入門した。翌年、20歳で勝川春朗の画名を許され、錦絵の発表を始めている。
90歳で世を去る北斎だから、ちょうどこの時から70年間にわたって浮世絵師として道をきわめていくことになる。

最初のうちは師匠譲りの画風だったとか。
歌舞伎役者や相撲取りなど、人物を中心に描いた。やがて美人画を得意とするようになり、30代の後半では、当時全盛を誇っていた喜多川歌麿をおびやかす存在にまでなっていた。つまり、若い頃からすでに頭角を表していたわけだ。

まったく余談ながら、北斎には珍談・奇談のたぐいが多い。

北斎は生涯に何と30回も名を変えている。いわゆる改号というやつだ。
使用した号は「春朗」、「宗理」、「葛飾北斎」、「画狂人」、「戴斗」、「為一」、「卍」などなど。
定かではないが、慢性的な借金苦にあった北斎は、弟子に号を譲り収入の足しにしていたとの説もある。それほどまでに家計は逼迫していたようだ。

北斎はまた、引っ越しの多さでも有名だ。ひょっとしたらギネスブックものかもしれない。
なんと93回も転居しているのだ。一日に3回も引っ越したことがあるという。
これは彼が絵を書くことのみに集中し、部屋が荒れれば(あるいは汚れれば)引っ越していたからである。掃除や整理整頓をしない。それどころか、食生活も大変乱れていたという。
それでも90歳の長寿を全うしたのは、慈姑(くわい)だけは毎日欠かさず食べていたからだと言われている。

慈姑(くわい)について↓
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E5%A7%91

北斎は元祖・マンガ家でもあった。なぜなら、自らの60代の作品群を「漫画」という言葉で紹介しているからだ。
ただし、今日の娯楽作品的な意味でのマンガではなく、漫画本来の字義に忠実な漫画なのだ。

漫画とは、「漫ろ(すずろ)に描く絵」という意味で北斎自身が造語したものである。

いずれにしても、世界を代表する芸術家が、たくさんの漫画を残しているのも彼らしいところだろう。

さて、北斎の気迫の凄さを表す文章を昨日ご紹介した。

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私は六歳のころから物の形状を写す癖があった。五十歳の頃から様々な絵を描いてきたが、思えば七十歳以前に描いたものはみな、取るに足らないものだった。七十三歳になってようやく鳥や動物、虫、骨の骨格、あるいは草や木の生ずる有り様を悟ることが出来るようになった。したがって八十歳になればますます絵が上達し、九十歳には奥義を極め、百歳には神妙の域に達することだろう。百十歳にもなれば、「一点一格」活けるがごとくに描けるようになるに違いない。願わくば読者の皆様には長生きをされ、私のいっていることが偽りでないことをその目でご覧下さいますように。
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北斎80歳代の作品は、肉体こそ老境に到るもその気迫はむしろ若いころより純粋さを増しているようだ。

小林 忠氏(学習院大学教授・千葉市美術館館長)は、文藝春秋10月臨時増刊号「葛飾北斎、享年九十」に寄稿された文章の中で次のように語っている。

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かつてこの作品(北斎最晩年の作品「雪中虎図」)を間近に見る機会があり、つくづく驚かされた。虎の身体も竹の葉も、どの部分の描線もすべて、一筆でまっすぐと引かれてはいないのだ。短い線を慎重につなぎ、あるいは重ねるなどして、破綻を見せないようにはしているものの、筆のふるえを懸命に抑えているのである。年をとると否応なしに身体が小刻みに震えてしまう、そうした肉体上のハンデを克服することで、かえって絵に凄みが加わっている。北斎晩年の絵は、近寄ってルーペで拡大して見ると、その努力の跡が確認できて感動させられずにいられない。
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文藝春秋10月臨時増刊号には、北斎の作品の数々がカラーで載っている。最晩年の作品、たとえば「文昌星図」「琵琶と蛇」「雪中虎図」「李白観瀑図」「富士見牧童図」「西瓜図」「雷神図」「富士越龍図」などは、「富岳三十六景」シリーズとは趣がずいぶんと異なる。
だが、私は最晩年の北斎の方が好きだ。枯れているのではない、むしろ若返っているようですらある。
いや、正しくは、北斎自身が語っているように「九十歳には奥義を極め、百歳には神妙の域に達することだろう」の通りになったのだ。