「晩酌がやめられない」とか、「ネットやテレビなしの生活なんてもはや考えられない」と思っていた私が、この春、坐禅道場でスゴイ生活を送った。
午前5時 鐘の音で起床
5時10分~7時 坐禅
7時~7時半 朝食
7時半~正午 坐禅
正午~12時半 昼食
12時半~18時 坐禅
18時~18時半 夕食
18時半~22時 坐禅
22時 就寝
(一日あたり坐禅時間 15時間強)
睡眠時間は7時間(起きている時間17時間)。
三食の時間を合計した1時間半以外はすべて坐禅。
たまにトイレに行ったり、二日に一回は入浴する時間もあるが、基本的には一日15時間ほどにおよぶ坐禅を一週間くりかえしたのだ。
我ながらよくやったと思う。
自宅での坐禅は30分も出来ないのに、なぜ坐禅道場ではそれが可能なのかと我ながら不思議に思ったものだ。
実はそれが「環境・・・住む世界」がなさせるワザだろう。
道場での食事はもちろん精進料理。肉や魚はでてこない。
そばや山菜、汁物程度なのだが、地のものをつかっているせいかとても美味い。
おかわりは自由。しかしゆっくり咀嚼しながら食べるせいか、食事中におなかが脹れてゆくのがわかってそれほど食べられるものではない。
当然、酒もなければ、女性の顔もみない。
テレビやラジオもないし携帯電話も使わない。メールチェックだけはこっそり布団に隠れて一日一回行った。
ひるがえって普段の生活はどうか。
坐禅道場における規則的かつ質素な生活とは真逆のようである。毎晩酒を飲み、インターネットとテレビがない生活など考えられない。ましてや今はワールドカップサッカーだ。
老子の言葉に「賢を尚(たっと)ばざれば、民をして争わざらしむ」というものがある。その意味はこうだ。
「為政者が、才能すぐれた者をとくに尊重するということをやめれば、人民が競争に熱をあげたりはしなくなるだろう。手に入りにくい珍しい品を貴重だとするようなことをやめれば、人民が人のものを盗んだりはしなくなるだろう。欲望を刺激するようなものが人民の目にふれないようにすれば、人民の心は乱されなくて平静になるだろう」
(「老子」 金谷 治 講談社学術文庫より)
あなたの心を乱すものはなにか。
ひとつには、外部からの誘惑。もうひとつは内からの誘惑だ。
“とらわれた” 心と言ってもよい。
ちょうどタバコ好きが自宅でタバコを切らしたときのようだ。眠る前の一服をつけようとしたらタバコが切れていた。そんなとき、彼は眠ってしまうのではなく、もう一度着替えてからタバコを買いに外出する。これは「タバコがなくてはならない」という本人の心がそうさせる。
何ものにもとらわれいないと言える人はいない。