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人が動くとき

「永遠に変わらないものなどない」というが、本当にそれを実感する出来事が多い。最近では日本国憲法も、プロ野球も、変えるための議論が盛んである。

プロ野球の球団と球団が合併するという。前回のプロ野球合併劇は、1958年(昭和33年)である。
毎日新聞の「オリオンズ」と、映画の大映の「スターズ」が合併して「大毎オリオンズ」(現・千葉ロッテマリーンズの前身)が誕生したのだ。それ以来、パリーグ6球団時代が46年続いているわけだが、それ以前には、7球団時代や8球団時代もあった。だから、6球団×2リーグ制のみがプロ野球本来の姿というわけではない。それが来年からいよいよ変わろうとしているのだが、世間はそれに対して少々間違った騒ぎ方をしているように思う。

この一件、世論は近鉄・オリックス両球団の首脳に対して批判的なようだ。その理由は、

曰く、企業のエゴ丸出しであるとか、(プロだから当然)
曰く、ファンや選手の意見をもっと聞け(何を聞くの?)とか、
曰く、プロ野球の終わりの始まり(どういう意味?)であるとか。

だが、私はこうした大勢の見方にこそ問題があると思う。

プロ野球はサッカーのような地域密着のクラブチームでない以上は、企業のエゴが出て当然だ。プロである以上、採算が合わなければ無理して経営を続ける必要はない。それがプロのスポーツビジネスだ。

この2月に球団名売却問題を持ちだすほど苦しかった近鉄。2000年3月期から4期連続で連結最終赤字で、04年3月期にようやく黒字浮上したばかり。02年3月期には無配転落するほどの経営不振だ。もちろん、プロ野球もバファローズもファンあってのものに違いないが、球団経営が存続できない以上は、合併や身売りを誰も批判できないはずだ。

一方のオリックスは、経常利益1000億を誇る快進撃企業だ。合併とは言うものの、実質的にはオリックス主導の交渉になっていくに違いない。
プロ野球の問題は次回7/7のオーナー会議まで、まだまだ紆余曲折があると思われるので、この程度にとどめよう。
さて、第二十回参院選の投票日が7月11日(日)に迫った。任期6年の参議院では、3年ごとに半数が改選する。今回の選挙では、

・都道府県単位の選挙区の改選数が73議席(候補者への投票)
・全国単位での比例代表の改選数が48議席(候補者または政党へ投票)
合計121議席を改選する。

“まじめ”党首岡田の誕生によって政治が若返ってゆくことは好ましいし、いつでも国政を運営できる政党が複数存在することも望ましい。
だが、二大政党政治が素晴らしいとは限らない。イギリスの保守党と労働党、アメリカの民主党と共和党という例もあるが、それぞれの国でも問題を抱えている。

日本は欧米の制度を参考にしつつも、独自の政治制度を作る必要があるだろう。何しろ日本は、八百万の神が存在するといわれるバランス国家、バランス民族ではないか。右か左か、前か後ろか、善か悪かの二択だけが選択肢ではない。

さて、このようにプロ野球だけでなく世の中全体が大きく変わろうとしている今、人が動く時ってどんな時だろうかと考える。つまり、変化の原動力は何か?ということだ。

それをひもとくキーワードを司馬遼太郎の『飛ぶが如く』の中で見つけた。

・・・
政治がもし論理のみで動くものであるとすれば、人類の歴史ははるかにかがやけるものであったろうと思われる。しかし政治においては論理という機械の作動する部分は不幸なことにわずかでしかない。それよりも、利害で動くということは大いにあるであろう。しかし、革命早々の日本国家の運営者たちは、政商の利益を代表していなかった。むしろ感情で動いた。感情が政治を動かす部分は、論理や利益よりもはるかに大きいといえるかもしれない。
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論理だけでは動かない。利害だけでも人は動かない。論理や利益よりも大きいもの、それは人間の感情だ。

そうした視点で変化を見てみると、今までとは違ったとらえ方ができてくる。