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銀次じいさん

誰もが近寄りがたいと感じる頑固な“銀次じいさん”がいた。今年70才になる。「頑固一徹」という単語は、この銀次じいさんのためにあるようで、まず自分ありき。自己というものが鉄でカチカチに出来上がっているかのようで、自分の意向にあわないものは、拒否し批判する。

その話しぶりも、むかし流行った「ぼやき漫才」を見ているかのようだった。それだけではない。笑顔を見せることもまれで、知らない人に会ったときには基本的に睨みつける、というのが銀次じいさんの流儀だった。

この銀次じいさんにはたった一人、孫がいる。今年7才になる雄太君だ。一ヶ月に一度しか遊びに来てくれないが、その日だけは銀次じいさんの形相が朝から穏やかになる。何日も前からイソイソし、オモチャを用意し、お菓子を用意し、遊びに行くところを決めておく。雄太君もおじいちゃんッ子で、二人でスーパー銭湯に行くのが大好きだった。

洗い場では、
「おじいちゃん、背中イタイよ。もっとやさしく洗ってよ」
「あっ、ゴメンゴメン。これ位かい?」
「ウン、それ位」

湯上がりでは、
「おじいちゃん、この靴下の向き反対だよ。こっち側にウルトラマンのマークが来るんだから」
「あっ、そうなのか。へぇ、知らなかった。そりゃそうだよな、みんなにウルトラマンを見せないとな」

「目に入れても痛くない」とは、雄太君の言いなりになる銀次じいさい、そのものだった。

じいさんの背中に、隣で着替えしていた男性の腕が当たった瞬間、そっちの方向を鋭い眼光で睨みつける銀次じいさんが、なぜ雄太君の前だけでは、こんなに優しくなってしまうのだろう。

雄太君の前の銀次じいさんのような状態を“自己を明け渡す”という。江戸城の無血開城のように、無条件で相手に明け渡すのだ。

この“自己を明け渡す”という行為は、実は私たちの成長に欠かせない重要なことである。おなじみの行為を手放し、相手の言いなりになって新しい行為を始めることだ。

特に“自己を明け渡す”ことの必要性を説くのは、宗教と武道だ。宗教家は、神中心の生き方をすすめるためにまず、自分を明け渡すことを要求する。

武道家は、“強くなればなるほど自分を明け渡せるようになり、自分を譲れば譲るほど強くなる”と教える。我流を諫め、小さく完成してしまうことを戒めているのだ。

さあ、あなたはどれだけ譲れるだろう。どれだけ自己を明け渡せるだろう。固まってしまうのはまだまだ早い。雄太君の前の銀次じいさんになろう。