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渋沢の「論語と算盤」

Rewrite:2014年3月26日(水)

経済人の立場から国家救済を唱え、日本資本主義の発展のために一生を捧げた渋沢栄一。大蔵省を退官後、明治6年に実業界に入ってからの活躍がめざましい。第一国立銀行(今のみずほ銀行)を設立。以後、日本鉄道会社、サッポロビール、王子製紙、日本郵船、日本鉄道などの創立に参画。明治期の日本資本主義の発展に貢献。「道徳経済合一主義」を提唱。昭和6年11月、91歳で逝去。

「ソロバンと論語を一致させよ」と説いた彼の言葉を幾つかご紹介する。

◇商工業は台所の米びつのごとく、国家の基礎である。一家の什器中もっとも目につくのは床の掛物、甲冑、書籍、屏風などにて、これらは一国の政治外交に関する将校や教育者に似ている。農工商に尽力する人は、すこぶる質素で他の目を引くことはない。しかし、もし一家にて米びつが乏しければ、他の飾り物も存し得ないだろう。されば、一家に必要欠くべからざるは米びつなるがごとく、国家の基礎は美麗なる装飾品にあらずして質素な米びつにあると言わねばならない。

◇商業上の真意義は、自利利他(じりりた)である。個人の利益はすなわち国家の富にして、私利すなわち公益である。公益となるべきほどの私利でなければ真の私利と言わない。

◇世の中の事業は決して一人の力のみでなるものではない。必ずこれを導く人と、これを遂ぐる人があってはじめてここに、できあがるのである。古人いわく『智者は事を始め、能者は述ぶ、一人にして成るあらざるなり』。

◇企業家において、まず第一に心すべきは「数の観念」である。最も綿密に成算し、右からみても左から見ても間違いがないようでなければならない。

◇事業を起こすにあたりては、協力者の人となりを明察せねばならない。協力者の不道徳、不信用ほど恐るべきものはない。迷惑のおよぶところは一個人の上ばかりで済まない。かくのごときは事業家としてもっとも戒心すべきである。

◇株式会社とは、あたかもひとつの共和国の政府のようなものである。株主は国民で、選ばれて事にあたる重役は、大統領または国務大臣が政治をとるようなものである。私物ではない。ゆえにその職にある間は、全能をもってこれに当たらねばならない。また、退職の時は、はきものを脱ぐような洒落の覚悟を必要とするのである。

◇大会社の経営をいにしえの幕政にたとえれば、譜代子飼の小名ばかりで固めず、広く外様の大名をも加えて、一般社会との接触を保ちつつ、経営するが肝要である。

◇政治に王道、覇道の別のあるごとく、実業界にもまた王道、覇道の別がある。

◇いかなる人を士いうべきか。実業家もまた士である。この士たる者の経営するところの商工業の最終目的は、すなわち国家をして、富みかつ強からしめるにある。

いかがだろう。産業人として本分をここまで分かりやすく表現し、かつ実践した渋沢の功績は大きい。

経営者には2種類の人種がいるようだ。つい最近の、料理屋における二人の経営者のやりとりがそれを代表している。

A「僕はいずれ株式を公開できるような会社になりたいと思っている。従業員を増やすだけでなく、株主を増やすことを目標にしたい」
B「なんでそんなアホなこと考えとるんや、面倒なだけやないか。もっとワンマンで勝手にやれば良いんとちゃうか」
A「たしかに今は100%自分が株をもっているが、もともと会社は自分個人のものとは思っていない。」
B「解らんなぁ。株主に使われるような立場になってどこが面白いのや」

日本に株式会社が誕生して一世紀半。こんな二人のやりとりは幾千幾万と繰り返されてきた。明治においても渋沢栄一と三菱創設者の岩崎弥太郎が同様の議論で激突している。しかもそのやりとりが今でも語りつがれている。

<明日につづく>