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社長の器 太閤秀吉より

      2014/08/04

Rewrite:2014年3月22日(土)

会社は社長の器以上にはならない、と言われるが太閤秀吉の場合を例にとってそれをみてみよう。

日本史上最大の急成長組織は豊臣秀吉がつくりあげた豊臣家であろう。尾張中村郷(今の名古屋市中村区)の農民のせがれだった日吉丸が、(秀吉の幼名と言われている)、蜂須賀小六と出会い、織田信長に仕えてから天下を平定するまでわずか30年。おそらく世界史でみても指折りの急成長だ。織田家での秀吉のスタートは雑役夫で、足軽以下である。しかもその当時はすでに18歳になっており、この当時としては遅いスタートでもある。

徳川、毛利、上杉、伊達など歴史と伝統と格式をもつ大大名を傘下におさめる巨大組織の頂点にたつまでの間、秀吉とその組織は成長と変質をくりかえす。企業でいえば、サラリーマンから個人の自営業、零細企業の社長から中小企業、中堅企業の社長を経て、一部上場会社、そして日本中の会社を傘下におさめることになるのだ、そのプロセスで秀吉の組織はどのように進化していったのか。

足軽頭になったころの秀吉の部下は数人から数十人の規模。企業でいえば、零細企業から中小企業のトップだ。ひとりひとりの足軽に直接話しかけ指導した。やがて墨俣築城のころには部下の数が数十人から二百人規模にふくれあがった。元気の良い中小企業規模で、秀吉とその部下とのドラマチックなエピソードがもっとも多い頃である。

近江長浜の城主になるころには千人から三千人規模。この時機には竹中半兵衛や黒田官兵衛などの知将が部下に加わっている。さらに加藤清正や石田三成といった小姓組織も生まれた。企業でいえば、中堅企業から上場企業だが、織田家という親会社をもつ気楽さも秀吉にはあったはずだ。

やがて、本能寺で信長急死のあと天王山の戦い、賤ヶ岳の合戦で勝利をおさめ、天下をとる。今度は親会社がなくなり、諸大名のすべてが部下となった。個人的な裁量で組織を動かすことはできなくなり、規則・規定と事務官僚が組織運営の中枢をにぎるようになる。

さて、秀吉の立派なところは、それらの間において部下との関係やリーダーシップのとり方を大きく変えてきているのだ。兄貴分からおやじに、大将から殿に、やがて太閤へと呼称は変わる。呼称がかわるだけでなく、その時々に必要な組織をつくり、同時に自らのふるまいもそれに応じて変えている。そこに秀吉と豊臣家成功の秘訣がある。その変身ぶりは「成長」などという生やさしいものではなく「豹変」に近いものであったはずだ。

組織が小さい段階ではお互いに気心をつかみ、規則に反するものがいても寛大だ。その分、戦場で結果を出せ、といったところだ。しかし、組織が巨大化し、お互いの気心がつかめなくなると、就業規則も賃金規定も必要になり、それを守らなければならなくなる。古参の武将からはそうした官僚的な組織運営に対する不満と若手エリートが幅を効かせることへの不信感が芽ばえる。しかし、秀吉はそのあたりの対立もうまく処置した。初期の段階で役に立った猛烈社員は、天下平定後の豊臣家ではほとんど役に立っていない。しかし、その分を知行(給料)で報いることで対立のバランスをとり続けた。

トップの器以上に会社は大きくならないという。反対からいえば、トップが大きくなりさえすれば会社はどこまでも大きくなれるということでもある。

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