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「コバック」の挑戦が止まらない

昭和34年、父が修理工場「小林モータース」を母とふたりで創業した。当時、マイカーを持てるのは裕福な家庭のみ。父の会社も、バイクとオート三輪の修理が中心だった。この直後、すさまじいモータリゼーションの波がやってくるが、当時の自動車はよく壊れた。カーディーラーの整備力も整っていなかったので、自動車修理の職人はみな、家が建てられるほどによく儲かった。

子どもは姉と弟の僕との二人なので自然と僕が跡とりになった。
18歳になった昭和57年、他社の修理工場に修行にでた。そして2年後の昭和59年(20歳)、父の会社に入った。そこからの数年間は苦悩と格闘の連続だった。

自動車修理ビジネスのバブル景気はすでに終わっていたのだ。
日本の自動車は世界最高クラスの完成度をもつようになり、壊れなくなった。販売ディーラーも独自に修理工場を併設し、町の修理工場は仕事が激減していた。過当競争になり、業界で働く人の多くは低賃金、過重労働にならざるを得ない。

業界は車検に活路を見いだそうとしていた。だが、当時の車検相場には価格カルテルがあり、自由な競争環境になかった。父は業界の世話人をやっていたので尚更だった。

そんな中、車検の割引きチラシを投入した僕は、業界からも家族からもたたかれた。「お前があとをついだら会社の将来はないぞ」と、複数の人から真剣にいわれた。「お前が成功するぐらいなら、みんな
成功するわ」ともいわれた。ボロクソにいわれたのは業界や家族からだけではない。お客にも連日怒鳴られた。

(車検の)値段が高い、まけろ、事前に見積もりを出せ、代車が汚い、代車のガソリンが少なすぎる・・・。気持ちはわかるが、お客のワガママを全部聞いていたら会社はつぶれると思った。

わかっていることはただひとつ。法改正もあって、今後は車検の仕事が増えるということ。ある一定の車検台数さえ確保できれば、お客のワガママも全部叶えられるのではないかと思った。その実験店をつくろうとおもった。

昭和62年、23歳になった僕は愛知県豊田市に車検専門店をオープンさせた。お客のワガママをみんな叶える店にした。代車は新車、ガソリンは満タン、車検は全部事前見積もり制。そのかわり、それ以上の値引きはしないし、掛け売りはしない。納車時に代金をお支払いいただく。そうした明朗な車検サービスが空前のヒットを飛ばす。初年度400台だった車検台数が、三年後に2800台になった。

自信が芽生えだした26歳のとき SMI という教材のセールルマンが僕のところにやってきた。S 君という同世代の若者だった。
その教材をつかえば「心に描いた夢はかならず実現する」という。
「そんなバカな」と思った。だけど、「もし本当ならすごい」とも思った。僕にはかなり高額な教材だったが、自分に賭けてみるつもりでSMI を買った。

根拠は何もなかったが日本初、日本一の車検専門店「コバック」の全国フランチャイズ展開をすると決心し、周囲にも宣言した。
SMI の勉強以外では、マクドナルドの創業者レイ・クロックの本を何度も何度も読んだ。
「本部は儲からなくてもいい。加盟店が儲かりさえすれば、本部はあとから、いかようにも儲けることができるようになる」レイ・クロックはそう教えてくれた。
相手の喜びがまず先に、自分の喜びはそのあとでいい。それを経営理念にした

・・・私たちの商品はお客様の満足です(コバックグループ)・・

試行錯誤した結果、いまのコバックの加盟料、月額会費が決まった。
ロイヤリティはゼロである。460店舗にもなった。
「車検のコバック」以外に「鈑金のモドーリー」も全国展開しており、グループ年商は520億円になったコバックグループ。

僕は大きな夢をみることが楽しみ。ほら吹きが趣味でもある。だから、今後のビジョンを聞かれたら迷わずこう答える。

「2030年12月23日、世界100か国に2万店舗。グループ年商3兆円」

それが僕の夢です。本気でそう思っているので今日、こうして和僑会の創設者ともお会いできましたので、この場で入会申込みさせていただきます。皆さん、一緒に夢を実現しましょう。

(小林憲司社長 談、2016/6/22「がんばれ!ナイト」にて)

会場に持ち込まれた小林社長のサイン入り最新刊は完売した。