滔滔(とうとう)の反対は訥訥(とつとつ)だろう。
滔滔としていれば聞く側にとっても聞きやすいが、たとえ訥訥としていても、そのほうが聞く側の心に素直に入ってくる場合もある。
どっちにしても、大切なのは話し手本人が、話したい内容が決まっていることなのだ。
私は子供のころ、友人に空想話を聞かせるのが大好きだった。空想することそのものが大好きで、空想したことを忘れないために、いつも大きめのスケッチブックを持ち歩いていた。
“千の顔を持つ男”といわれるプロレスラー「ミル・マスカラス」が初来日したときなど、日本での全試合を頭の中で完全予想し、それを周囲に語ったり、小説風に仕上げて配ったりもした。
また、高校野球が大好きなので私の母校が甲子園に出場し、優勝するまでの完全シミュレートも行い、そのスコアブックをスケッチブックに記入し楽しんだ。
こうして書きながら今思うのだが、私は”オタク”の先がけだった。
「お前、見てきたかのように話すなぁ」と友人に何度も言われた。
結果がその通りになるかならないかは問題ではない。ありありと想像することが他のどんな遊びより好きだったのだ。
ありありと想像すれば、誰だって「見てきたかのように話し」、「見てきたかのように書く」のが当然のこととなる。
好きなテーマであれば、想像することそのものが楽しいし、苦手なことは想像力が働かない。
苦手なことを本業にしている人は少ないと思うが、苦手な仕事方法を選んでしまっていることはあり得る。
そんなときは、いったん現実を離れて、楽しい未来を空想し、それを語れるようになろう。空想するだけでなく、それを語ることによって、突如、空想に現実感が帯びてくるのだ。
こうした行為は若い人だけに許される特権ではない。還暦を過ぎたあなたも、年金生活を始めているあなたにも必要な作業なのだ。
想像力が乏しくなった人のために、未来にかかる雲や霧を払いのける「想像スケッチ」という私の訓練法をお教えしよう。
大きめのスケッチブック(ノートでも可)をいつも持ち歩いて、それに想像したことをメモっていく。余白をたっぷりとってキーワードだけを書き込んでゆくもよし、絵を描くもよし、作文したって構わない。
何でもありのあなただけの想像スケッチだ。
思いつくたびにあとから追加メモができるよう、余白をゆったりとることが肝心だ。
「想像スケッチ」に書いた内容は、時々人に語ると尚よい。
先週末、こんなことがあった。
2007年に卒業予定の学生を対象にした愛知県の求人イベントに我社も参加した。初の新卒求人だ。
おそらく最も小さい会社だった我社が、4日間で80名の学生を集め、参加企業の中でも相当上位の集客をした。
そして80名の学生が異口同音に聞いてくるのが、会社の将来のビジョンだ。
そこで、いよいよ会社の将来を「見てきたかのように話す」ことが求められるのだが・・・。
<明日に続く>