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臨済の喝

中国のある街で工場見学をした時のこと。案内者の経営者が、突如、地響きするほどの大声で「オイ、こらっ!」と怒鳴った。
そのあと、作業員の方に近づき、「その右足、危ないだろうが。この台に乗っけて作業せんかい!」と身ぶり手ぶりを交えて真剣に叱っている。

「こらっ!」の迫力に作業員の中国人男性も圧倒されているのがよくわかる。

工場見学を終えて会議室に戻るなり私は、「すごくよく通るお声でしたね」と水を向けてみた。すると、「工場の騒音の中でも私の声は一番よく通るから便利だ。だが、大声を出すのは工場だけではない。間違ったことが行われていたり、同じ過ちをくり返す人間がいると、たとえ静かな場所でも『こらっ!』と大声を出すのが私の流儀だ」とのことだった。

「なるほどなぁ」と感心したのを覚えている。

ものごとを真剣に教えるときには、言葉や文書で優しく説いてあげる方法以外に、「大声で叱りとばす」という方法もある。
時と場合によっては、一喝を発する方が効果的な時だってあると思う。
この方法、最近ではあまり使われなくなったが、大声で叱れる上司は、今後ますます希少価値のある存在になってゆくかもしれない。
ただし、感情によって大声を発するのではなく、相手の目を覚まさせるための一喝でなければならない。

一喝といえば。

中国唐代末の禅僧で後に臨済宗の開祖ともなる臨済義玄(?~867)。
彼の一種独特な指導法が後々、ひとつのスタイルとして確立することとなる。それが「喝」を用いた指導だ。

喝とは、一瞬の大声を出すことであるが、単なる大声ではないのだ。
臨済は、修行者を指導する手段として、四種類の喝を使い分けていたという。

1.有時一喝如金剛王宝剣
ある時の一喝は、金剛王宝剣(こんこうおうほうけん)の如く。
金剛王宝剣は堅く、鋭利であり、どんなものでも一刀両断にすることができるように、この一喝は、迷いや妄想を断ち切る一喝だ。

2.有時一喝如踞地金毛獅子
ある時の一喝は、据地金毛(こじきんもう)の獅子の如く。
百獣の王で金毛の獅子が、地面にうずくまり獲物にとびかかろうとした姿は、底知れぬ威力を秘めて周囲を威圧する。このような一喝は、寄りつくスキもない威力をもった一喝だ。

3.有時一喝如探竿影草
ある時の一喝は、探竿影草(たんかんようぞう)の如く。
探竿とは、竿の先に鵜の羽根をつけたもので、水中を探って魚を浮草(影草)の下に集めて捕る魚具をいう。つまり、相手の様子をうかがいながら、一喝したとき、本物か偽物かをみる喝だ。

4.有時一喝不作一喝用
ある時の一喝は、一喝の用(ゆう)を作(な)さず。
これは自然のまま、何の造作も意図も加えない一喝。これこそ、無喝の喝ともいうべき最上級の喝と言われるもの。

書物による求道や、道徳的戒律を求めない禅にあっては、悟りの境地を持つ指導者から発せられるこれらの喝こそ最高の教材であり、修行者の心に迫るものだったろう。

言葉や文字で優しく教える指導法だけでは限界がくるときがある。
そのとき、たった一言「か~つ!」と発すれば済むような上司や部下
がいるような会社が果たして日本に何社あるだろう。