むかしむかし、大乗仏教の普及に貢献した龍樹(りゅうじゅ)という人がいた。
彼は大変に煩悩の強い人で、若いころに「愛欲が人生の一番のよろこびだ。だからたくさんの女性と交わることこそ人生の幸福だ」と考えた。いや、考えただけでなく龍樹はそれを実行した。
身を隠す術を覚えた龍樹は仲間たちと王様の宮廷に忍び入り、夜な夜な愛欲のかぎりをつくし、宮女たちを妊娠させていった。
やがてそれが発覚し、仲間たちは殺される。龍樹ひとり命からがら宮廷を脱出したという話が仏典のなかに出てくるそうだ。
龍樹とは困ったやつなのだが、そんな彼が後に、ものすごく立派な仕事をなしとげるのだから人間は分からない。
そんな話を聞くと、煩悩とは何だろう、性欲とは何だろうと思ってしまう。
「性欲は強いが食欲は乏しい」とか、「物欲は盛んなのだが性欲はない」というようなことは、本来、矛盾した話なのかもしれない。
「性欲」とか「食欲」とか、それぞれの欲がどこかで単独で存在するのではなく、どんな欲だろうが源は「生命エネルギー」ひとつだと思う。ただ、エネルギーのはけ口が違うだけだ。
であれば、欲との接し方を考えねばならない。
どのような欲(煩悩)であろうとも、それを打ち消そうとするのが小乗仏教の考え方だし、初期の仏教(小乗仏教)では煩悩を断ち切るための修業や隠遁生活を実施した。
しかし、悟るために山奥などに隠遁していては、たとえ悟ったところで本人の独りよがりでおわってしまう。悟りを世に広め、人を救うために悟りの方法を伝授しようというのが大乗仏教の考え方だ。むしろ欲を上手にマネジメントしようというわけだ。
第一、煩悩や私欲を断ち切ってしまったら、そもそも人間は生きていけなくなる。生きよう、良くなろう、と真剣に努力するのは、すなわち人間に備わった自然な欲である。
だが、とらわれた欲、とりつかれた欲はやがて苦しみになる。
食べ過ぎると胃袋がだんだん大きくなるように、食欲も性欲も物欲も、くりかえしそれを充足させていたら、どんどんエスカレートして尽きることがなくなる。
小さなもの、低次なものにとらわれるのではなく、もっと大きなもの・高次ものにとらわれるようになろう、という努力が大切になる。
そうすれば、現世において肉体をもったままで仏になることができる。
そのために備えるべき六つの徳を定めたものが、六波羅蜜(ろくはらみつ)というものだ。
六波羅蜜とは、
1.布施(ふせ)
2.持戒(じかい)
3.忍辱(にんにく)
4.精進(しょうじん)
5.禅定(ぜんじょう)
6.智慧(ちえ)
の六つをいう。
大乗仏教の修行をする者が、理想を完成するために行うべき徳目であり、崇高な理想がここにある。
<明日につづく>
参考:『梅原猛の授業 仏になろう』(梅原猛 著、朝日新聞社)
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