「論語と算盤」「経済道徳合一説」を説いた渋沢栄一翁の精神は、日本型資本主義の経営者像に大きな影響を与えた。それだけでなく、平成の日本経営者の魂に今なお翁の願いが脈々と受け継がれているように思える。
だが、理念や哲学がなくても商売上手の才覚だけで会社がデカクなっていく時もある。
だったら、経営者の志や理念とは何の意味をもつのか?それが本当に会社経営に大切なものなのか?
それがないとどのような問題があるのか・ないのか、と問われたら、あなたは何と答えるのだろう。結構むずかしい問題だが、あなたなりの答えを持っている必要がありそうだ。
資本主義というゲームのルールを理解したのなら、求道的な経営などやめて利益獲得ゲーム・収入獲得ゲームに熱中しても良いのではないか?そんなことをふと、一人で思ったことはないだろうか。
たしか私が30才代のとき、職場の先輩に「収入だけが仕事の目的ではないです」と語ったところ、
「武沢君、ゲームをやる前からゲームの目的を考えたってしようがない。いいかい、すでにゲームは始まっているのだ。だから、ゲームに勝つことに専念するのがゲーマーの掟だ。まずは一等賞でゲームに勝って、そのあとから”勝利だけが大切なのではない”と言ってみろよ」と言われた。
私は食い下がって、「先輩、よくわかりません。とりあえずという形でゲームに熱中することはできません」と言うと、
「じゃあ、わかりやすく教えてあげよう。”金儲けだけが人生ではない”と言って世間がそれに賛同してくれるのは、金持ちがそれを言った時だけなんだよ。貧乏人がそれを言ったってしょせんは負け犬の遠吠えなんだ」
ちくしょう、
「貧乏人が言っても迫力がない」とまで言われると、さすがに私も黙り込むしかなかった。
「まずは金持ちになるしかないのか・・・」と。ひょっとしたら、本当に自分は遠吠えしているだけなのかも知れない、とも思った。
あれから20年、いまだに金持ちにはなれていないが、自信をもって「会社経営も人生も利益や金だけが目的ではない」と言い切れる自分が今ここにいる。
いや、金など大した意味をもたないとまで思えるようになった。お金よりも心の持ち方、自分のあり方が大切なのだと。
会社の経営も日常の生活も一日一日が修行の場、鍛錬の場、聖なる場なのではないかと思う。
自分を成長させ、周囲に良い影響を与え、施しを提供し、住みよい社会を作っていく。自分が施した相手から直接、施しのお返しを受けることがなくても、回りまわってそれが自分の子供や孫に返ってくることだって少なくない。
いや、そもそもお返しなんて気にしない。
だが、注意したいこともある。
お金が乏しすぎるとどうしても他人に依存する気持ちが芽生え、不思議なことに心が萎縮しがちとなる。
貧乏すぎると、精神の独立を失いかねない危険性があるのが経済中心社会の現状なのだ。
だから、利益や収入を得ることに対して寡欲や無欲でもいけないと思う。金だけが目的ではないが、決して金が不要なのではないし、金を憎むべきだとも思っていない。
本当は金と心に相関関係はないはずなのだが、金の豊かさと心の豊かさが若干正比例してしまうところがある。それが我が心の未熟さだ。
経営者は宗教家や何かの信者になる必要はないが、会社の目的や理念を明らかにし、それに殉じた毎日を送るという意味では、聖職者や教祖のようであらねばならないと思うのだ。