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何のために生きるのか

ここはバチカン博物館にあるシスティーヌ礼拝堂。あのミケランジェロが描いた名画中の名画『最後の審判』がこの礼拝堂の壁面に荘厳かつ、ド迫力でもって旧約の世界を描いているのだ。
壁画の4年前に完成したという天井画と併せて、何もしらない私がみただけで卒倒しそうになるほどの感激をしたわけだから、完成当時の人々の衝撃たるや、いかばかりのものだったろう。

最後の審判
http://www.salvastyle.com/menu_renaissance/michelangelo_universale.html 

旧約聖書で神が天地を創造し、最初の人間アダムをつくり、アダムの肋骨からイブをつくる。やがてアダムとイブがエデンの園で神の掟をやぶって禁断の果実に手を伸ばし、原罪を追う。そうした一コマ一コマが天井から壁にいたるまで描かれているこの場所に、人間の言葉や解説などいらない。そこにいるだけでよいのだ。

教えを絵にすることには意味がある。

『何のために生きるのか』(稲盛和夫、五木寛之共著、致知出版社)という本が間もなく発売になる。
この本のなかで五木氏は、「いま大事なのは新しい浄土の物語をつくることだという気がするんです」と述べ、次のような主旨の発言をしている。

平安時代から鎌倉にかけて多くの人々が地獄というものに怯えていた時代に、「浄土」という輝かしい物語をつくったのが法然。彼は、「あの世には浄土があるんだよ。念仏さえ唱えれば、光り輝く浄土に迎えられるんだよ」と教えた。あの世には、蓮の花が咲いていて、心地良い音楽が流れ・・・などと浄土のすばらしい概念に人々は飛びつき、法然のもとに集まってきた。
だが、今となっては、蓮の花や心地良い音楽と聞いてもピンと来ない。
だから、いのちの旅立つ先のイメージを新しい物語として創り出す必要がある。

というのが五木氏の意見だ。

私もミケランジェロの「最後の審判」に接したとき、自分の未来に対する力強く積極的になれるビジュアルが必要だと思った。
従って五木氏の発言には、我が意を得たりと感じた次第。

あなたも会社のリーダーとして、我社の将来像をミケランジェロになったつもりでありありと絵を描いてみよう。文字通り、絵でも良い。
文章でも俳句でも箇条書きでもなんでもよい。大切なことは、読み手の心を打つほどの圧倒的迫力と、その裏側にあるほとばしる情熱だと思う。

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